イエスはどんな人間だったのか② ユダヤ人とは何か

歴史

イエスの生涯とキリスト教の歴史をたどる連載の2回目です。

今回と次回でユダヤ人とユダヤ教についてまとめます。

 

イエスも、その弟子たちも、1世紀に生きたユダヤ人でした。

かれらは他のユダヤ人たちとおなじく、ユダヤ教の伝統のなかで生きていました。

ただ従来のユダヤ教に満足できなくなり、新しい風をふきこんだのがイエス。

そしてイエスの教えをさらに発展させて「キリスト教」という新しい宗教にまでもっていったのが、イエスの弟子たちです。

 

だからイエスという人間を理解するうえでも、またキリスト教を理解するうえでも、ユダヤ人・ユダヤ教を知ることが欠かせません。

そこで、ユダヤ人とはいったいどんな人々なのか?

また、ユダヤ教とはどんな宗教なのか?

この2点を2回に分けておさらいしましょう。

 

一言でいえば、

ユダヤ人とはパレスチナに昔から住んでいた一部族。

長い被支配の歴史をもつ人々のことです。

 

そしてユダヤ教とは、ユダヤ人が長い被支配の歴史から生み出した宗教。

自分たちのアイデンティティを失わないための「よすが」でした。


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1章 ユダヤ人の歴史(ユダヤ教誕生以前)

紀元前1500年ごろ、パレスチナとよばれる地域に暮らしはじめた一部族がユダヤ人です。

バビロン捕囚(後述)前までは「ヘブライ人」と呼ばれていました。

またユダヤ人自身は自分たちを「イスラエル人」と称しました。

かれらの歴史をおさらいしてみましょう。

 

ユダヤ人の祖アブラハムと、「エルサレム」の語源

ユダヤ人とはもともと遊牧民のひとつでした。

それがパレスチナに住みはじめたのは、伝説によれば、アブラハムというユダヤ人の祖が神に導かれたため、です。

「君の子孫にわたしはこの地を与える」。

アブラハムは神からこう言われて、パレスチナ南部(約束の地カナン)に移住したのでした。

神の使いを迎えるアブラハム

ついでに、アブラハムにまつわる有名な話をひとつ紹介しましょう。

「イサクの献供」とよばれるお話です。

あるときアブラハムは神から呼びかけられ、
「君の愛する独り子イサクを捧げなさい」と言われます。

それでアブラハムは息子イサクを連れて、火打石と薪と刀をもって、神に言われた場所へとおもむきます。

イサクが不思議に思って尋ねます、
「お父さん、火と薪の用意はあるのに、仔羊はどこにあるのですか」。

「神ご自身が備えたまうだろう、わが子よ」

アブラハムはそう言って、目的の場所へとたどりつくと、祭壇を築き、薪をならべ、イサクをしばってその上に置きました。

イサクを捧げようとするアブラハムと、制止する天の使い

そしてわが子にむかって刀を振りおろそうとした瞬間、神の使いが天より呼びかけます。

「アブラハムよ、君の手を子どもに加えるな。何もしてはいけない。今こそわたしは、君が神を畏れる者であることを知った。なぜなら君は独り子をも惜しまず、わたしに捧げようとしたからだ」。

そこでアブラハムが目を上げると、ちかくの藪に一匹の羊がいました。

それでアブラハムはイサクの代わりに羊を捧げたのでした。

 

一説には、この話の舞台はサラムという場所だったと言われています。

この出来事以降、サラムの名には

「イルエ=(神が)備えたまう」という言葉がつくようになりました。

この「イルエ・サラム」という土地名がさらに変化して、「エルサレム」となったそうです。

エルサレム旧市街(嘆きの壁)

 

モーセの「出エジプト」

このころエジプトではエジプト新王国が最盛期を迎えていました。

パレスチナもエジプト新王国の影響下にあり、ユダヤ人たちの一部はエジプトで、奴隷として働かされるようになっていました。

紀元前1500年頃の世界

ところが紀元前1200年ころ、モーセという一人の指導者が現れて、「エジプトから脱出するぞ」と同胞たちによびかけます。

途中、海を割って道をつくったり、シナイ山で神から十戒をさずかったりしながら、無事エジプトを脱出。

パレスチナにもどったユダヤ人たちは、それから次第に他のユダヤ人支族や周辺部族を平らげていきます。

モーセ

 

(モーセをあつかった映画ではチャールトン・ヘストン主演の『十戒』が有名ですね。視聴はこちらからどうぞ↓)

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統一王国とダヴィデ・ソロモン王

やがて紀元前1000年ころ、ユダヤの12の支族は、ダヴィデという王さまの下に統一されます。

またカナン人やペリシテ人とよばれた他の部族も、ユダヤ人に従うか同化します。

こうしてパレスチナに史上はじめて、ユダヤ人の統一王国が誕生しました。

 

ちなみに、ユダヤ人自身の国が誕生したのは歴史上3回だけ。

この統一王国と、紀元前140~63年のハスモン朝、そして現代のイスラエル国だけです。

あとはずーっと、だれかに支配された歴史になります。

ダヴィデ像(ミケランジェロ作)

もうひとつ余談ですが、

イエスの弟子(使徒)が12人なのはおそらく、ユダヤの12支族と関係しています

新約聖書の作者がユダヤの伝統にそって「12人だった」としたのか、あるいはイエス自身がかつてのユダヤ支族を意識して12人選んだのか。

もしかして、イエスは弟子たちに対して

「おれが王になったら、おまえたちを各支族の族長にしてやる」と言っていたのかも。

これはイエスを「ユダヤ統一王国の復活をもくろんだ革命家」とする捉え方です。

このあたり、くわしくは8回目の記事(メシアとは何を意味するのか)で取り上げます。

 

とにかく、ダヴィデ王によってユダヤ人たちは統一され、その子ソロモン王のとき、王国は最盛期をむかえました。

エルサレムに神殿がはじめて建てられたのも、ソロモン王の治世です。

エルサレム神殿の予想図

もっとも、このときに建てられたエルサレム神殿は、厳密にいうとユダヤ教の神殿ではありません。

日本の古代の神社みたいなもので、素朴な、昔ながらの神々を祀ったものと考えたほうがいいでしょう。

のちに唯一神に仕立てあげられる「ヤハウェ」も、このころはまだ神々のなかのひとりという位置づけでした。

 

王国の分裂とバビロン捕囚

さて、ユダヤの統一王国はソロモン王の死後、内紛がおこり、南北に分裂します。

北にイスラエル王国

南にユダ王国

このうちイスラエル王国は紀元前722年、強大な帝国アッシリアに滅ぼされます。

その後も南のユダ王国はしばらく独立をたもちますが、紀元前586年、アッシリアにとって代わった新バビロニアによって征服されます。

紀元前600年頃の世界

 

新バビロニアの王ネブカドネザル2世はユダヤ人の多くを、みずからの都バビロンに連行しました。ユダヤ人たちは異国の地で虜囚の身となったのです。

この出来事を「バビロン捕囚」といいます。

このあと2000年以上にわたり、ユダヤ人はいろんな支配者に代わる代わる支配されることになります。

その意味で、バビロン捕囚とはユダヤ人の被支配のはじまりといえます。

 

ちなみにこのころから、「ユダ王国の遺民」という意味で、「ユダヤ人」という呼称が使われるようになりました。

 

 

ユダヤ教の誕生と神殿の再建

バビロン捕囚は48年間つづきました。

この間に、ユダヤ教が成立したといわれています。

ユダヤ教の内容については次回の記事でくわしく解説しますが、ようするに異国の地で異国に染まらないため、自分たちのアイデンティティを守るために確立した宗教です。

新バビロニアはその後、アケメネス朝ペルシアの創始者キュロス2世によって滅ぼされます。

そして紀元前538年、キュロス2世は、バビロンにいるユダヤ人たちを解放します。

これは最近流行りの「人道的措置」なんかじゃなくて、少数民族に寛大にしとけば広大な帝国を安定させやすいという、キュロス2世の政治的な思惑からでした。

 

開放されたユダ王国の遺民たちはエルサレム周辺に戻り、荒れ放題だったエルサレムの神殿をリフォームします(第2神殿)。

そしてこのエルサレム神殿をユダヤ教信仰の中心に据えました。

ユダヤ人たちは、この後いろんな帝国に支配されながらも、ユダヤ教という自分たちだけの宗教をもちつづけることで、「帝国内の特殊なひとたち」という立場を継続させていきます。


 

2章 ユダヤ人の歴史(ユダヤ教誕生~ローマ支配)

ユダヤ教が誕生して以降のユダヤの歴史は、いろんな帝国に支配される歴史でした。

ヘレニズム諸帝国の支配、一時の独立、そしてローマの支配までをふりかえりましょう。

 

ヘレニズム時代のユダヤ人

紀元前331年、アケメネス朝ペルシアはアレクサンドロス大王に破れ滅亡します。

アレクサンドロスは史上まれにみる大帝国を築きあげますが、遠征の途中、33歳の若さで亡くなります。

その後、帝国は分裂し、アンティゴノス朝マケドニア・プトレマイオス朝エジプト・セレウコス朝シリアなどに分かれました。

中近東一帯をギリシア人が支配したこの約300年間を、歴史上「ヘレニズム時代」と呼びます。

紀元前300年頃の世界

パレスチナはプトレマイオス朝エジプトの領域となりました。

ユダヤ人たちはプトレマイオス朝のもとで、かなりの自治とユダヤ教の信仰を認められて、暮らしていたようです。

またこのころからユダヤ人たちは、商売上手という本領を発揮しはじめます

各地の都市に移住して、多くの財をなすユダヤ人が現れました。

とくにプトレマイオス朝の都アレクサンドリアにはたくさんのユダヤ人が住みつき、大きなユダヤ・コミュニティを形成したりしました。

 

しかし紀元前198年、セレウコス朝シリアが攻めてきて、パレスチナはセレウコス朝シリアの領域へと変わります。

そしてシリア王はユダヤ人たちにたいして、ギリシアの神々を信仰するよう強制しました。

いままでギリシア文化を受け入れず、ユダヤ教をひたすら守り、それでいいよと言われてきたのに、急にダメだと言われたから、ユダヤ人は反発します。

 

史上2度目のユダヤ人国家、ハスモン朝

紀元前164年、ユダヤ教の祭司だったマガバイ家の人たちが反乱をおこします。

マガバイ一族は政治能力にも秀でていたようで、ユダヤの同胞たちをまきこみ、たくみに勢力を拡大させ、ついに紀元前140年、セレウコス朝シリアからの独立を勝ち取ります。

こうしてユダヤ人は史上2度目の独立王国・ハスモン朝をもつことになりました。

ユダ王国の滅亡以来、約440年ぶりのことです。

マガバイ戦争を起こしたユダ=マガバイ

ハスモン朝の特徴は一言でいうと、神権政治です。

これは反乱を指導したマガバイ一族がもともと大祭司で、ユダヤ教の序列でもトップだったから。

ハスモン朝は約100年間つづきますが、この間に

「政治のトップと宗教のトップはおなじ」というのがユダヤ人のあいだで常識になります。

ここのところが、政教分離に慣れた現代のわたしたちにも、そして当時のローマ人たちにとっても、わからなかったんです。

だから、政治のトップと宗教のトップを切り離したローマの支配に、ユダヤ人は何度も反発していくわけです。

 

ローマ支配下のヘロデ朝

このころ地中海では、ローマがポエニ戦争に完全勝利し、支配を広げていました。

紀元前66年からは、ポンペイウスというローマの武将が東方遠征に出発し、

小アジアのポントス王国を支配し、

セレウコス朝シリアを滅亡させ、

そしてハスモン朝も支配下におさめます。

紀元0年前後の世界

ローマはユダヤ人たちにたいし、一定の自治と信仰の自由を認めます。

それでパレスチナはローマ支配下となったあとも、しばらくハスモン家が治めていましたが、ローマにとりいったヘロデという野心家がハスモン家にとって代わります。

紀元前37年からの、このヘロデ家による統治を「ヘロデ朝」とも呼びます。

まあ実態はローマ支配下の中間管理職みたいなもんですけどね。


ヘロデがやった有名な事業としては、エルサレム神殿の大改修があります。

神殿を拡張し、周囲にはローマ風の回廊をめぐらせ、そこに大理石の円柱を飾りたてました。

この大改修の理由は2つあります。

ひとつはヘロデ自身が見栄っ張りだったため。後世にのこる壮大な神殿を築こうとしたんでしょう。

そしてもうひとつは、ユダヤ人たちへのサービスでした。

というのも、このころパレスチナには、ユダヤ人の不満が渦巻いていたからです。


 

3章 ユダヤ人の歴史(イエス誕生時)

紀元前1世紀、つまりイエス誕生の直前、

ユダヤの民衆が不満に思っていたことをまとめると、以下の3つです。

  • ローマの政治的支配
  • 異民族の流入
  • 経済格差の拡大

そしてこれらの不満が渦巻いていた時代に、イエスは誕生し、活躍します。

だから、イエスの生涯とその教えを理解するうえでも、こうしたユダヤ民衆の想いを理解することが欠かせません。

なぜなら、イエスという歴史的存在はこうしたユダヤ民衆の想いのなかから現れるからです。


不満1:ローマの政治的支配

「ローマの政治的支配」についてはすこし先述しましたが、

ハスモン朝を経験したユダヤ人にとって、「政治的支配者と宗教的支配者が別」というのは耐え難いことでした。

自分たちのトップは、政治的にも宗教的にも、自分たちとおなじユダヤ人でなければいけなかったのです。

たとえ政治的支配者がどれだけ寛容であろうとも、です。

 

いわゆる民族的感情というやつですが、ユダヤ人の場合、ユダヤ教という民族的感情をつねに醸造して熟成させる酵母があるので、そんじょそこらのナショナリズムなどとはケタがちがいます。

大英帝国に植民地化されたインドの民衆、その不満の10倍を想定すればいいでしょうか。

こうしたユダヤ民衆の不満をそらすためにも、ヘロデは自らの権力を誇示する必要があったんです。

エルサレム神殿(ヘロデ改修後)の模型

不満2:異民族の流入

つぎに「異民族の流入」ですが、

紀元前63年にローマの属州になって以降(正式な属州化は紀元6年)、パレスチナにはさまざまな人たちが住みつくようになりました。

ローマ人はじめ、ギリシア人、スペイン人、ガリア人、シリア人などです。

 

こうした多様性こそ、ローマが世界帝国であった証拠のひとつなんですが、ユダヤ人にとってこれは我慢ならないことだったんです。

なぜならパレスチナは「ユダヤ人だけに約束された土地」だからです

あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人はみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。」(申命記20章16‐17節)

聖書はこのように命じているからです。

 

こんな理想を抱く同胞たちを前にして、

かれらをうまくなだめすかすためにはエルサレム神殿を飾り付けるしかない

とヘロデが思ったとしてもムリはないでしょう。


不満3:経済格差の拡大

最後に「経済格差の拡大」ですが、

パレスチナがローマ世界に組み込まれるとともに、大土地所有制(ラティフンディア)も入ってきました。

大土地所有制とは要するに、金持ちがたくさんの奴隷または小作人を雇って働かせる仕組みです。

近代の植民地におけるプランテーション、または現代アメリカにおける大規模農業をイメージするとちょっと近いです。

 

これらと、日本の家族経営農業とを比較してもらうとわかりやすいんですが、小作人のほうが不安定で貧乏なんです。土地もってないから。

そのうえ当時のパレスチナの小作人はたいてい日雇いだったんで、「その日の仕事がない」ってことも多々あったんですね。



そんな、日雇い派遣バイトみたいな立場に急に立たされたユダヤの民衆たちと、

土地もってるローマ貴族やユダヤ祭司階級のお偉方との格差は、一気にひろがっていたんです。

ユダヤの民衆に不満がたまるのも当然ですね。

じつはヘロデの神殿大改修は、こうした小作人たちに仕事を与えるという失業対策のような側面もあったんです。

 

そしてイエスが生まれる

紀元前4年、ヘロデが亡くなります。

強権的な政治ながら、とにもかくにも、ヘロデはユダヤ人の不満を抑えていたんです。

その指導者が亡くなったんで、パレスチナ全土でユダヤ人の不満が噴出していきます。

ヘロデ

そしてまさにちょうど同じ年、紀元前4年に、パレスチナ北部のガリラヤ地方という田舎で、イエスが誕生するのです。

イエスの生きた時代背景というのは、以上のようなユダヤ人の不満が高まっていた時代だったんです。

 

このことを理解しておかないと、イエスの言動も教えも理解することができません。

なぜイエスは洗礼者ヨハネに弟子入りしたのか?

なぜイエスはあんな教えを説いたのか?

なぜイエスはメシアと呼ばれたのか?

4回目以降でも、以上話してきた歴史的背景をふまえてお読みください。


 

まとめ

本当はこのあとの歴史も書くつもりでしたが、長くなったのでここで切り上げます。

ユダヤ人の歴史をいまいちどまとめると次のとおりです。

 

≪ユダヤ教の誕生以前≫

  • 紀元前1500年頃、パレスチナに移住する
  • 一部はエジプト新王国で奴隷となるが、紀元前1200年頃、脱出
  • 紀元前1000年頃、ダヴィデ王のもとに統一
  • でもソロモン王の死後、南北に分裂
  • 北のイスラエル王国は紀元前722年、滅亡
  • 南のユダ王国も紀元前586年、滅亡 →バビロン捕囚
  • ユダヤ教成立、解放されてパレスチナにもどる

 

≪ユダヤ教の誕生以後≫

  • 紀元前331年のアレクサンドロス遠征以降、ギリシアの支配下に
  • プトレマイオス朝エジプト支配下では一定の自治と信仰の自由
  • セレウコス朝シリア支配下ではギリシア信仰を強制される →反発
  • 紀元前140年、ハスモン朝成立。2度目のユダヤ人王国で神権政治
  • 紀元前63年、ポンペイウスによってローマの支配下に
  • 紀元前37年、ローマ支配下でヘロデ朝が成立
  • 紀元前4年、ヘロデが死に、イエスが生まれる

 

では次回は「ユダヤ教とは何か」について見てみましょう。

ユダヤ人のアイデンティティ、ユダヤ人を規定するもの、それこそがまさにユダヤ教です。

イエス時代のユダヤ教の内実まで取り上げていく予定です。

イエスはどんな人間だったのか③ ユダヤ教とは何か

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