イエスの生涯をめぐる連載の7回目。
前回につづき、イエスの宣教内容を解説していきます。
おさらいをすると、イエスの言いたかったこと・したかったことは次の4つでした。
権力にたいする激しい憤り。
弱者に寄り添うこと。
真に正しいことをせよ。
神の国の到来。
前回は前2つを解説したので、今回は後2つを解説します。
キリスト教的解釈でなく、イエスという人間の言いたかった考え、イエス自身の伝えたかった思想を見ていきましょう。
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わたしは律法を成就するために来た
よく言われるように、イエスはキリスト教の創始者ではなく、ユダヤ教の改革者でした。
それは彼が、律法というユダヤ教の根幹を否定せず、むしろ正そうとしていたことからもわかります。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
新約聖書「マタイによる福音書」5.17-18
イエスは律法を、どのように成就させようとしたのでしょうか?
律法は「決まり」でなく「教え」
そもそも「律法」とは、ユダヤ教における「トーラー」を日本語訳したことばです。
日本語の語感からして、なんとなく「法律」とか「決まり」といったものをイメージしてしまいますが、これは正確じゃありません。
「トーラー」とは本来、「モーセ5書」のこと。
つまり神が預言者をつうじてユダヤ人に語りかけた教えのことなんです。
(だから「律法」という語の「法」とは、「法律」よりもむしろ「仏法」に近いです)
ところがイエスの時代、ユダヤ人は生活の様々な場面で、こまかい決まりにしばられていました。
3回目や6回目の記事でも見たように、安息日や食事規定などなどです。
これらの決まりは、律法学者が長年モーセ5書の内容を研究し、解釈したもの。
そして律法学者やパリサイ派が民衆に教え、実生活におとしこんだものでした。
イエスはこれを批判したんです。
前回の記事でも見たように、イエスは律法学者とパリサイ派にこう言っています。
新約聖書「マルコによる福音書」7.8
いまの社会にある決まりは、ただ単に人間の解釈、そして慣習にすぎない。
そんな決まりを、いちいち守ることが大切なんじゃない。
それも大切だけど、律法そのものの本質に忠実であろうとすることのほうが、もっと大切なんだ。
イエスのこの考え方が端的に表れている箇所。
それが「離縁状の話」であり、「殺すな、姦淫するな」であり、「ゆるしの話」です。
離縁状の話
イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。
彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。 それゆえに、人はその父母を離れ、 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
新約聖書「マルコによる福音書」10.2-9
ちなみに、パリサイ派が挙げているモーセの教えとは、以下の記述です。
ヘブライ語聖書「申命記」24.1
イエスはここで、ぜったい離婚するな、と言ってるわけじゃないんです。
離婚の手続きがあるからといって、ヘロデ=アンティパスのように気軽に離婚して弟の妻と再婚したりする、そんな風潮を批判したんです。
おまえら、いちばん大切なことを忘れているんじゃないか。
夫婦が添い遂げようとする、その心持こそ大切だし、人間として自然だろう。
モーセが言ったのはあくまで、どうしようもなくなったときのことだ。
肝心なことを見失うなよ、と。
パリサイ派が律法を「決まり」と捉えているのに対して、イエスが律法を「教え」「心得」と捉えていることがわかります。
「殺すな」「姦淫するな」
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
(中略)
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
新約聖書「マタイによる福音書」5.21-28
ここでもイエスは極端なことを言ってます。
怒るな、愚か者・ばか者と言うな。
情欲をいだいて異性を見るな、と。
でも、イエスが言いたかったのは別のことなんです。
実際に殺人をしなければ、人を言葉で殺してもいいのか。
姦淫という行為さえしなければ、その手前の感情をもっててもいいと思っているのか。
そうじゃない。
律法は行為の禁止を教えてるんじゃない、おれたちの心のありよう・生き方を教えてるんだ、と。
やはりイエスは律法を「教え」「心得」と捉え、その本質に立ち戻れと説いているわけです。
ゆるしの話
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。
新約聖書「マタイによる福音書」18.21-22
ここでもイエスは、行為・決まりを重視する、いわば形式主義を、批判しています。
つまり弟子のペテロが「許す」という行為(とその回数まで!)を問題にしているのに対して、イエスは「許す」という行為自体ではなく、その奥にある「許す心」を問題にしているのです。
同時にイエスは、「何回許せばいいか」という発想そのものが律法の本質から外れていると、ペテロを批判しているのです。
だからイエスはペテロに「何回でも何十回でも許せ」と言うのです。
ちなみにマタイはこのあとに、負債者のたとえ話を付け加えて、「だから神があなたがたを許すように、兄弟に対しても同じようにしなさい」と、キリスト教的解釈で話をまとめています。
のちのキリスト教徒もまた、神やイエス=キリストがわれわれの罪を許したように、われわれも隣人を許そうと、説教します。
しかしイエス自身の主眼は「許し」云々ではありません。
「許すこと」はあくまで一例で、行為そのものよりも「教え」「心得」といった本質こそが大切なんだという点に、イエスの主眼があるのです。
律法の成就は「神の国」に入るため
以上のように、イエスが考える真に正しいこととは、律法の本質に忠実たろうとする姿勢でした。
そして同時に、律法の本質に忠実であれば、人の決めたこまかい決まりなど些細なことだとして、当時のユダヤ教を批判しました。
だから、日々こまかい決まりを守っていることが誇りのパリサイ派を、律法主義者を、イエスは攻撃したのです。
(このあたり、平安仏教を暗に批判した親鸞と、ちょっと似ています)。
では、なぜ律法の本質に忠実たろうとすることが大切なのか?
なぜイエスは当時のユダヤ教を批判し、律法を成就させようとしたのか?
それは「神の国」に入るためでした。
権力に対する激しい憤り。
弱者に寄り添うこと。
真に正しいことをすること。
これらのイエスの言動はすべて、「神の国」という思想の下で結びつきます。
神の国は近づいた
イエスの言いたかったこと、その最後は「神の国の到来」です。
新約聖書「マルコによる福音書」1.15
そもそもイエスはこう言って宣教をはじめたのでした。
だからイエスの思想の中心は「神の国」という概念にある、といっても過言じゃありません。
では、イエスの語る「神の国」とは一体どんなものなのでしょうか。
「神の国」はイエスの独創じゃない
一言でいえば、カタストロフィの後に神によってもたらされる全く新しい世界のことです。
その世界では、いままでの価値観や秩序はすべて破壊され、理想郷が実現します。
そしてその理想郷を治めるのはダヴィデの血をひくユダヤの王であり、理想郷に住むのもユダヤ人です。
なぜなら理想郷を実現してくれる神こそ、ユダヤの神ヤハウェだからです。
こうしてユダヤ統一王朝時の栄光が、ユダヤ人の手にふたたび戻ってくるのです。
終末思想と選民思想のいりまじった「神の国の到来」という考え方。
こうした考え方は、じつはイエスの独創じゃありません。
むしろユダヤ教の伝統といってもいいくらいに、昔から言い古されてきました。
タナハ(ヘブライ語聖書)に出てくる預言者たちもさかんに唱えています。
マガバイ一族もまた、そうした理想郷を唱えてセレウコス朝シリアと戦い、ハスモン朝をつくりました。
ガリラヤのユダもまた、こうした理想郷を夢見てローマに反乱しました。
洗礼者ヨハネもまた、神の国は近いと信じて荒野で活動しました。
だからイエスが「神の国は近づいた」と言うとき、民衆たちはなんとなくイメージできたんです。
あ、おれたちユダヤ人の理想郷のことを言ってるんだな、と。
けっしてキリスト教が解釈するような「あの世」のことではないんです。
この現実世界に実現されるのが「神の国」なんです。
ただ、一口に理想郷といっても、それぞれの思い描く理想郷はちがいます。
マガバイ一族の場合、それはシリアの支配から脱した王国でした。
ガリラヤのユダの場合、それはローマを追い出して自分たちが新たな支配者になる国でした。
洗礼者ヨハネの場合、それは平等と正義のおこなわれる国でした。
ではイエスは、どんな「神の国」をイメージしていたんでしょうか?
イエスの思い描く「神の国」とは
神の国について語ったイエスの言葉は、どれも抽象的で、はっきりこうだとは言えません。
ただおそらくこうだろうと推測はできます。
イエスのイメージする神の国。
それは、現在の価値観や秩序が180°ひっくりかえった世界でした。
「マルコ」10.31 および「マタイ」19.30
あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
(中略)
しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」。
「ルカ」6.20-25
弱者は強者になり、強者は弱者になる。
力なき者は力を得、力ある者は力を失う。
虐げられている者が幸福になり、虐げている者は不幸になる。
「神の国」で結びつくイエスの思想
前回の記事で、イエスはこの社会のあらゆる支配者層を怒りをこめて批判したと述べました。
こうした権力者への怒り。
これが神の国につながるのです。
持っている者がそのままでいる世界じゃダメだ。
持っている者は持たないようになる世界こそ理想だと。
また前回の記事で、イエスは弱者に寄り添ったとも述べました。
こうした弱者への徹底した寄り添い。
これがまた神の国につながるのです。
持たざる者がそのままでいる世界もダメだ。
持たざる者が持つようになる世界、それこそ理想だと。
そして今回の記事の前半で、イエスは当時のユダヤ教を批判し、律法を正そうとしたと述べました。
こうした律法の改革への意志。
これもまた神の国の思想と結びつきます。
現在の律法は権力者に都合よく、弱い者に都合わるくできている。
律法の本質に立ち戻れ、むしろ強者にむずかしく弱者にやさしい律法に直せ。
そうして改められた真の律法を行う者、その者こそが神の国に入るのだと。
神の国はいつどのように実現するか
ここまでみてくると、すこし疑問が残ります。
じゃあイエスは、神の国がいつどのようにして実現されると考えていたのか、って疑問です。
まず「いつ」に関してですが、イエスは「もう始まってる」と考えていたようです。
「マルコ」4.26-29
「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
「ルカ」17.20-21
気づかないかもしれないが、神の国はもう始まっているんだ。
ほら、種はもう、あなたがたの中にまかれているぞ。
イエスはこう言ったのです。
では、神の国はいったいどのようにして実現されるんでしょうか。
ガリラヤのユダのように、暴力革命によって自力で?
それとも、神の超絶的な力によって?
このあたりは、イエスが自分自身をどのようにとらえていたかとも関係します。
よってこの問題は次回の記事で詳述します。
→イエスはどんな人間だったのか⑧ メシアとは何を意味するのか
ただひとつ言えるのは、神の国を実現させる種はおれ自身だと、イエスは考えていたってことです。
だからイエスは「なによりもわたしに従え」と、人々に命じたのです。
このあたりも、次回の記事でくわしく述べますね。
まとめ
- イエスは当時のユダヤ教を形式主義だと批判した。
- そして律法の本質に忠実であろうとすること、それこそ真に正しいことだと説いた。
- イエスの思い描く「神の国」とは、現在の価値観や秩序が180°ひっくりかえった世界。
- 「神の国」思想はユダヤ教に古くからあったが、イエスは「それはもう始まっている」と説いた。
以上、2回にわけてイエスの思想を見てきました。
もういちどまとめると、イエスの宣教内容は次の4つです。
権力にたいする激しい憤り。
弱者に寄り添うこと。
真に正しいことをせよ。
神の国の到来。
これらを説きつつ、病人をいやしたり奇跡を起こしたりしてイエスは回りました。
ガリラヤ湖周辺の人々は、こんなイエスをみて、「彼は救世主(メシア)ではないか」と思い始めました。
その噂はしだいに広まり、やがてパレスチナの支配者層の耳にも入ります。
「ガリラヤにナザレのイエスという人物がいる、彼は民衆から救世主(メシア)とみられている」。
まさにこの事実によって、イエスは支配者層から危険視され、やがて逮捕され、十字架刑となるのです。
いったい救世主(メシア)とは何を意味するのか?
そしてイエス自身は自分をどう捉えていたのか?
この点について、次回の記事でみていきたいと思います。
乞うご期待。
→イエスはどんな人間だったのか⑧ メシアとは何を意味するのか
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