産業革命はなぜ綿工業の分野からはじまったのか?その理由を簡単に解説

歴史

産業革命について5回目の記事になります。

イギリスの産業革命について学ぶと、必ず初めに「産業革命は綿工業の発達からはじまった」と出てきます。

なぜ綿工業からはじまったのか、今回はこのなぞに迫っていきます。

スポンサーリンク

綿工業の発達はインドの「キャラコ」ブームがきっかけ

産業革命における綿工業の発達は、インド製の綿織物、つまり「キャラコ」に対抗するためでした。

どんな関係だったのか、時代順にくわしく見てみます。

 

17世紀のイギリスはインド経営に専念する

16世紀の終わり頃から、イギリスはアジア貿易に本格的に参加しようとしていきます。

16世紀末といえば、当時のイギリスはエリザベス1世の時代。

アマルダ海戦でスペインの無敵艦隊をうちやぶり、さあスペインやポルトガルに続けとばかり、アジアの富を求めて進出していくのです。

当時の世界ではヨーロッパなんて辺境の貧弱地域。アジアが世界の中心でしたから。

 

アジアの海洋貿易にはこのころ、大きく分けて2つの領域がありました。

ひとつは中国・明を中心に、朝鮮や日本、東南アジアに広がる東アジア貿易。これは朝貢貿易や倭寇による密貿易、また朱印船貿易などです。

もうひとつはインド・ムガル帝国を中心にしたインド洋貿易。これはイスラム商人が担っています。

イギリスはこのどちらの貿易にも、「あとから来てすんませんけど、仲間に入れてもらえんでしょうか」と参入を試みます。

 

ところが東アジア貿易のほうで、おもわぬ邪魔が入ります。オランダです。

「あんた後から来て何ゆうとうの。どっか行ったら」と、1623年のアンボイナ事件をきっかけに、東アジアから追い出されてしまいます。

それでイギリスはインド洋貿易のほうに専念することになりました。

インド沿岸のマドラス、ボンベイ、カルカッタという場所を基地として、アジア産のお茶や香辛料などを輸入していきます。

この輸入を一手に引き受けたのは、1600年ちょうどに設立された東インド会社

国から貿易を任されたこの東インド会社によって、17世紀のイギリスには、アジアのいろんな物品が入ってくるようになったのです。

 

ちなみに、紅茶に砂糖を入れて飲むという習慣がイギリスではじまったのもこの頃です。

なぜ緑茶じゃなくて紅茶かというと、アジアで積んだ茶葉が船で運ぶうちに緑茶→ウーロン茶→紅茶へと発酵したためです。


東インド会社によってインド産綿布(キャラコ)がもたらされる

こうした物品のうちのひとつに、インド産の綿布がありました。当時は「キャラコ」と呼ばれていました。

それまでイギリスでは毛織物産業がさかんで、イギリス人はみんな毛織物を着ていたんですが、綿織物のうすさ、軽さにおどろきます。

 

キャラコはまたたくまに大ヒット。

「キャラコ狂」と呼ばれるほどのブームとなります。

あまりの流行に、毛織物業者や絹織物業者が危機感を感じて、「東インド会社は綿製品の輸入をやめろ」なんて論争もおこります(キャラコ論争といいます)。

しかしいちど綿製品の良さを味わうと、もう元にはもどれません。

「人間はいちど生活が良くなると、前の生活にはもどれない」。

これ、ウチのばあちゃんの名言です。

そんなわけで、17世紀以降のイギリス人は、ジェントルマンなどの金持ちを中心に、本国でも植民地でも綿製品を使うようになっていきました。

 

ちなみに「綿製品」と書いたのは、服だけでなく、カーテンやテーブルクロスにも使われたからです。

綿布でつくったカーテンは軽やかでいいですもんね。

 

「国内で安い綿製品を作れたら売れるかも?」→綿工業の発達

こうしてイギリスでは、キャラコブームによって綿製品の市場がすでに開拓されていたのです。

「じゃあ国内で安い綿製品を作れたら、売れるんじゃないか?」

こう考える人が出てくるのも当然です。

それで綿工業の分野で、技術革新がはじまったのでした。

つまりイギリスの綿工業の発達は、インド産綿布(キャラコ)によって開拓された市場にのっかったんですね。

 

では具体的にどんな技術革新があったのか?

そして技術革新によって何が変わったのか?

今度はそうした変化を見ていきましょう。

>Amazonプライム・ビデオで「コットンクラブ (字幕版)」を観る

 

イギリスが製品を輸出する側になった

綿織物をつくるには、①綿花から原綿を取り出し、②原綿から綿糸をつくり(紡績)、③綿糸をつかって布を織る(織布)、という3つの工程が必要です。

イギリスではとくに②と③の工程において、技術革新がすすみました。

こうした技術革新によって、綿製品がイギリス国内で大量に作られるようになります。

そして綿製品が大量生産されるようになると、今度はイギリスが綿製品を輸出する側にまわるのです。

 

紡績と織布での技術革新

前々回の記事でもすこし取り上げましたが、紡績および織布(しょくふ)における技術革新をよりくわしく見てみましょう。

≪紡績(綿糸の製造)≫

1764年頃、ハーグリーヴズが多軸紡績機(ジェニー紡績機)を開発。人力だが、1人で8本の糸を同時につむげるのが特徴。「ジェニー」とはハーグリーヴズの妻または娘の名前。
1769年、アークライトが水力紡績機を開発。その名のとおり水力を利用しており、熟練技術がいらないことが特徴。工場での大量生産に道をひらいた。
1779年、クロンプトンがミュール紡績機を開発。多軸紡績機と水力紡績機のいいとこどりをして、良質の綿糸を大量生産できるようになったのが特徴。ミュールとは「ラバ」の意味。

 

≪織布(綿織物の製造)≫

1733年、ジョン=ケイが飛び杼を開発。杼(ひ)とは機織りのときに使う道具で、横糸のまかれた細長い形のもの。これが縦糸のあいだを通ることで布が織られていく。ジョン=ケイの飛び杼は、ひもをひっぱると自動的に杼が横にピュッと飛ぶのが特徴。これで作業効率が3~4倍にアップしたため、綿糸が不足。結果、上記の紡績機の発明につながった。
1785年、カートライトが力織機を開発。蒸気機関を導入したのが特徴。あいつく紡績機の開発によって今度は綿糸があまったため、より速く織れる機械が必要だった。力織機はジョン=ケイの飛び杼より約4倍も速く織ることができた。

 

それぞれ図をつけようとしたんですが無かったので、こちらのサイトを見てください(ページ中ほどにそれぞれの機械の図があります)。
東京農工大学「生糸と絹と機織」



イギリスが製品の「輸出」側になる

18世紀のこうした技術革新によって、イギリスは綿製品を大量に生産することが可能になりました。

大量生産できるので、価格も安くなり、一般市民もすこしずつ綿製品を買えるようになっていきます。

しかし大量に作りすぎると、モノ余りになりますね。国内市場はもう飽和状態というやつです。

 

そこで綿工業の資本家たちは、海外市場に目をむけます。

つまり今度は逆に、イギリスの綿製品がインドに輸出されるようになったのです。

インドは原材料である綿花を輸出する側にまわりました。

こうして19世紀には、イギリスとインドの力関係が逆転します。

原料を売る国と、加工された製品を売る国と、どちらが先進国であるかは、現代社会を見てもわかるでしょう。

つまり産業革命によって、イギリスは貿易の主体となり、逆にインドはただ原料を輸出するだけの従属国に落とされたのでした。

これが、綿工業からはじまった産業革命によるおおきな変化です。
(このあたりの大きな流れはこちらの記事を参照)

 

まとめ

ここまでの話をまとめます。

○なぜ綿工業の発達から産業革命がはじまったのか?その答えは、17世紀以降のキャラコブームによって、イギリス国内に十分な綿製品市場ができていたから。

○綿工業における技術革新は、とくに紡績と織布の工程ですすんだ。この技術革新・機械の導入によって、綿製品の大量生産が可能に。

○国内で綿製品があまったため、海外にも売られるようになる。こうして19世紀にはイギリスとインドの関係が逆転した。

 

ちなみに、最後に挙げた「イギリスとインドとの関係が逆転」という現象は、産業革命が欧米中にひろまったことで、「欧米とアジアとの関係が逆転」にもなっていきます。

こうした変化を含めて、産業革命によって何が変わったのか?

「社会の変化」「生活の変化」「政治・経済の変化」の3回にわけて、次回から解説していきます。

6回目:産業革命によって何が変わったのか?社会への影響を5つ挙げてみる

7回目:産業革命によって何が変わったのか?生活への影響を5つ挙げてみる

8回目:産業革命によって何が変わったのか?政治・経済への影響を5つ挙げてみる

スポンサーリンク