前回につづいて、イギリスで最初に産業革命がおこった理由を説明します。
産業革命について、全11回のうち3回目の記事となります。
[この連載の記事一覧]
前回の話をまとめるとこんなかんじでした。
今回は産業革命の4要因の残り2つ、「人口増加」と「科学技術の進展」がそれぞれイギリスでどのようにおこったのか?
この2点について解説していきます。
人口増加を引き起こした農業革命
工場で大量生産をおこなうには、たくさんの労働者が必要です。
18世紀後半のイギリスがこうした労働力を確保できたのは、農業の改良によって食糧が増え、結果として人口が急激に増えたからでした。
中世以来の「三圃制」
農業の改良といっても、画期的な農機具が開発されたとかではありません。
生産性の高い、新しい農法が広まったんです。
イギリスにかぎらず、ヨーロッパの多くの地域ではそれまで中世からずっと「三圃制(さんぽせい)」という農法がメジャーでした。
三圃制とは畑を3つに分けて、それぞれ冬穀用の畑、夏穀用の畑、休閑地とし、この役割を3年かけて順繰りにローテーションしていくシステムです。(冬穀とは秋に種をまく穀物で、小麦やライ麦など。夏穀とは春に種をまく穀物で、大麦などを指します)。
日本の土壌とちがい、ヨーロッパの土は痩せているので、どうしても3年に1度は休ませないと土地がおとろえてしまうんですね。
ただ休閑地を休ませるだけではもったいないので、牛や豚などの家畜を放し飼いにしていました。
そんで家畜は畑を耕す労働力にもなると。糞は畑の肥料に使うと。冬が来るまえには殺して、おいしくいただくと。
けっこう工夫された農法だったんですね。
三圃制から4輪作へ
ところが18世紀になって、三圃制に代わる新たな農法がつぎつぎと登場します。
代表的なものでいうと、イギリス東部のノーフォークという場所で開発された「ノーフォーク農法」。
これの画期的なところは、ローテーション(輪作)が3年から4年になったこと、そして休閑地を設けなくてもよくなったことでした。
穀物栽培のあいだにクローバーとカブの栽培が入ってきていますね。
クローバーは空中の窒素を土中に固定して、土地がおとろえるのを防いでくれます。
またカブは深くに根をはるので、土を耕す効果があります。
こうして休閑地を設けなくても、連続で畑を使うことができるようになりました。
またクローバーとカブは家畜のエサにもなります。
すると、それまで冬のエサがなくて泣く泣く殺していた家畜を、冬をまたいで飼育することができるようになりました。
「おらんとこの花子(注:牛)が、カブを食べてすくすく成長してるだー」
「毎日おいしい牛乳を飲ましてもらってありがとなー、花子(注:牛)」
「こいつが長生きしてくれるから、耕せる畑が前よりずっと広くなっただ。おかげで小麦も大麦も収穫量が増えただよ、なあ、花子(注:牛)」
「りっぱに育ったなー、おいしく食ってもらえよ、ぐすん」
こういうわけで、肉も麦も生産量がアップしたんですね。
この生産量の大幅アップを、歴史上「農業革命」といいます。
この農業革命が人口増加へとつながっていったんです。
囲い込み(エンクロージャー)の原因と結果
しかし、ノーフォーク農法を導入するためにはひとつ障害がありました。
それはちいさな畑が無数に入り組んでいたこと。これではノーフォーク農法という大規模農業には不向きです。
つまり、ちいさな畑が混在していては収穫時期も微妙にずれるし、せっかく増えた家畜という労働力も十分に活かしきれないのです。
そこでイギリスの地主たちは、家族単位で分けられていた畑を大きく統合しました。
そして「ここは1年目に夏穀ね、こっちの畑はクローバー…」というように、おおきくなった畑を、生け垣や石垣で囲い込みました。
これがイギリスの歴史上、「(第2次)囲い込み」(エンクロージャー)と呼ばれる運動です。
囲い込みの結果、イギリスの農村からは独立自営農民(ヨーマン)がいなくなり、地主・借地農・農業労働者という3つの新たな階級に分けられました。
ヨーマンはどこへ行ったのかというと、借地農になった者、副業に手を出して成功をおさめた者、そして労働者におちぶれた者というように分かれていったのです。
じつはこの囲い込みと、農村の体制が変わったこともあわせて「農業革命」といいます。
ちなみに、この囲い込みによって農村を追われた農民が都市に出て労働者となった、というのは、以前の記事(産業革命とは何か?いちばん本質のところを簡単に説明してみる)で書いたように、的を射ていません。
大量の労働力は人口増加そのものによって生まれました。
そして、囲い込みのあとも農業労働者は必要だったので、そんなにたくさんの農民が都市に出たわけでもないのです。
「囲い込みによって都市の労働力が生まれた」という主張は、アーノルド・トインビーが言い出したものです。
あの、「産業革命」という用語を定着させた学者ですね。
人口や環境といった要因が歴史学にもちこまれるようになったのはごく最近のことです。
ヒトはこうして増えてきた 20万年の人口変遷史 (新潮選書) [ 大塚柳太郎 ]
科学技術の進展
つぎに、産業革命の4要因の最後、「科学技術の進展」を見てみます。
大量生産のためには機械が欠かせません。また製品を大量に輸送するためにも、それまでの馬車や帆船では限界がありました。
こうした大量生産・大量輸送を可能にしたのが、18世紀ヨーロッパの進んだ科学技術だったんです。
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綿工業における技術革新
技術革新はまず綿工業の分野ではじまりました。
なぜ綿工業の分野ではじまったのかは、5回目の記事でくわしく解説します。
とにかく、おもな新発明と発明者をならべると以下の5つです。
- 飛び杼(ひ)…ジョン=ケイ(イギリス)
- 多軸紡績機(ジェニー紡績機)…ハーグリーヴス(イギリス)。「ジェニー」とは彼の妻または娘の名前。
- 水力紡績機…アークライト(イギリス)
- ミュール紡績機…クロンプトン(イギリス)。「ミュール」とはラバの意味。
- 力織機…カートライト(イギリス)
これらの発明によって、糸をつむぐ仕事(紡績)と、その糸をつかって綿を織る仕事が、人力から機械へと変わりました。
それで一気に大量の綿織物を生産できるようになったんです。
ちなみに紡績機とはこんなやつ↓
ただ、これら綿工業における技術革新は「最初にはじまった」という点で重要なだけで、真に重要な技術革新はほかにあります。
それは蒸気機関の発明と、石炭の利用と、製鉄です。
蒸気機関の発明・改良
蒸気機関とは水蒸気によってピストンを上下運動させたり、タービンを回したりする機械のことです。
つまり「水を加熱する」という熱エネルギーを、運動エネルギーに変えるシステムのことをいいます。
17世紀末から18世紀にかけて、イギリスではドニ=パパンやセイヴァリといった人たちが蒸気機関を発明していました。
それを最初に実用化したのは、ニューコメンという発明家です。ニューコメンの蒸気機関は地下水のくみ上げなどに利用されていきました。
んで1769年には、ワットがさらに改良します。
ワットはピストンの上下運動を歯車の回転運動に変える技術も開発して、ここから、いろんな用途に蒸気機関が使われるようになりました。
カートライトの力織機に。
スティーヴンソンが開発した蒸気機関車に。
フルトンが開発した蒸気船に。
こうして、製品の大量生産だけでなく、大量輸送も可能になったんですね。
石炭の利用というエネルギー革命
ただ蒸気機関を動かすには、水蒸気を発生させる必要があります。
つまり水を熱する必要があるんですが、当時のイギリスは、燃料用の薪(木材)が圧倒的に不足していました。
これはそれまでの森林伐採の結果です。
そこで代わりの燃料として目をつけられたのが、石炭でした。
さいわいイギリスには石炭がけっこう豊富にあったので、これが薪に代わる新たなエネルギー源となったのです。
まさに「必要は発明の母」ですね。
こうしたエネルギー源の変化を「エネルギー革命」と言ったりもします。ちなみに20世紀半ばには「石炭→石油」というエネルギー革命がまたおこっています。21世紀の現代、これから来る第3のエネルギー源は何になるんでしょう。シェールガスか、原発か、再生可能エネルギーか、核融合か…。
21世紀エネルギー革命の全貌 [ ジャン・マリー・シュヴァリエ ]
コークスによって実現した大量の製鉄
また、蒸気機関をつくるにも、ほかの部品をつくるにも、大量の鉄が欠かせません。
つまり良質で大量の鉄をつくることができる製鉄業の発達が不可欠です。
これもまたイギリスでは、18世紀の技術者ダービー父子が達成していたんです。
16世紀以降、イギリスでは製鉄がすでに発達していましたが、これは燃料に木を使っていました。
さきほど述べたイギリスの森林減少は、この製鉄業によるものだったんです。
なぜ製鉄に大量の木を使うのか、くわしくは『もののけ姫』をみてください。
そこでダービー父子は、薪の代わりに石炭を、製鉄の燃料としても使おうとしました。
ただ石炭をそのまま鉄鉱石(鉄の原料)とまぜて熱すると、石炭の不純物によって鉄が変質してしまいます。
それでかれらは、石炭を蒸し焼きにして不純物をとりのぞき、コークスという状態にしてから使用しました。
こうして石炭を燃料にした大量の製鉄が可能になり、蒸気機関にも、さまざまな部品にも、蒸気機関車や蒸気船にも、武器にも、たくさんの鉄が使われるようになったんです。
蒸気機関の発明と改良。
石炭の利用。
製鉄業の発展。
この3本柱が、産業革命の大量生産・大量輸送を支えたんです。
なぜイギリスが最初だったのか→4要因がそろっていたから
ここまでの話をまとめると上のようになります。
以上、産業革命の4つの要因をくわしく解説してきました。そして読むうちに気づいたでしょう。
4つの要因をすべてそろえていたのはイギリスだけだったと。
これが「なぜイギリスで最初に産業革命がおこったのか」の答えです。
他の国は「広大な植民地」がなかった
とくにフランスやオランダなどになくて、イギリスにあったものは、「広大な植民地」です。
前回の記事で書いたように、イギリスがフランスとの植民地獲得戦争に勝利したためです。
(前回の記事↓)
じつはフランスにも、大量の資本はありました。王さまと貴族のもとに。
また人口増加も達成していました。絶対数でいえば1800年当時でイギリスの倍の人口がありました。
科学技術の進展もさかんでした。ラヴォアジエもラプラスもみんな18世紀のフランス人です。
でもフランスには、広大な植民地がなかったんですね。
それで原料の供給も、消費先としての市場も確保できなかった。これがフランスで産業革命がはじまらなかった理由です。
イギリス特有の事情とは?
ただ、これだけでは「なぜイギリスが最初なのか」の説明は完成しません。
じつはもうひとつ、イギリス特有の事情があったために、産業革命はイギリスからはじまったのです。
それは「ジェントルマンという階級の存在」です。
これについては、次回!
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