ブッダの思想に歴史好きがせまる③ 初転法輪で説かれた4つの真実

歴史

ブッダの思想をわかりやすく解説する連載、3回目です。

前回まで、仏教が登場した歴史的背景と、ブッダが求め悟ったのは涅槃(消滅)の境地だという話をしてきました。

今回はゴータマ・ブッダがこの世界をどう捉えたのか、つまり初期仏教の世界観に迫ります。

ゴータマ・ブッダは35歳で悟りを開いたあと、かつての苦行仲間5人に初めての説法をおこないます。

この初説法(仏教用語で「初転法輪」)のなかで中心的に語られたのが、「四諦」つまり4つの真実でした。

彼は、何がこの世界の真実だとしたのか?

順をおって見ていきましょう。

初転法輪までの経緯

サールナート
(中央に見えるのはダメーク・ストゥーバ)

まずゴータマ・ブッダの初説法がどこで・誰に・どんな経緯で語られたのか。

初転法輪までのいきさつを確認します。

「梵天勧請」

前回の記事でみたように、ゴータマは菩提樹の下で独力で、涅槃の境地に達しました。

涅槃とは苦の消えた境地なので、楽しかありません。

ジュウゴのような凡夫にはちょっと想像すらできない心身状態ですが、とにかく彼はそう成ったのです。

それでゴータマ・ブッダはそれから数日間、場所を変えつつ、自分の涅槃の状態をひとり楽しみます。

しかしそのうち彼は考えます。

自分が涅槃に至った方法とそこで悟った真実は、あまりに難解で、また人間の本来的な性向に逆らうものだ、これは人に伝えたって理解してもらえないだろう、と。

ブッダガヤの大菩提寺の菩提樹
Wilipediaより

 

仏説では、ここで梵天(ブラフマン)が登場します。

ブラフマンとは1回目の記事でみたとおり、バラモン教のウパニシャッド哲学における最高神。

そのブラフマン神が、ゴータマ・ブッダに対して教えを説くように請い勧めたので、「じゃ、伝道しようか」と彼も心変わりした。これが有名な「梵天勧請」というエピソードです。

神様の登場はともかく、ここからわかるのは、ブッダは当初自分の悟りを人に教える気はなかったということ。

イエスのように世界改革の使命に突き動かされたわけではなく、またムハンマドのように超自然的な力に押さえつけられて「読誦せよ!」と命令されたわけでもないので、自分の苦さえ消せればOKだったんです。

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ただブッダは世間を観察して、世の中には欲望にとりつかれて自分を省みない人もいれば、そうでない人もいる、後者のなかには自分の教えに聞く耳をもつ人もいるかもしれない、と考えます。

こうしてブッダは伝道をする気になったのです。

ここからもうひとつわかるのは、仏教とは万人のための宗教ではないということ。

すくなくとも大乗以前の初期仏教はそうでした。

快楽を求めるという人間本来の性向に疑問を感じた人、「より良く生きる」というみなが信じて疑わない常識からはみだす可能性をもった人、そんな人だけに向けられた教えだったのです。

聞く耳あるものたちのために、不死の門は開かれた。信を解き放て。
『中部』26「聖求経」

 

サールナート

こうしてゴータマ・ブッダは、かつての苦行仲間5人のもとを訪れます。

苦行仲間たちもまた、かれらなりの方法で、命がけで何かしらの真理を追い求めている沙門でした。

かれらならきっと、わたしの教えを聞いて感ずるところがあるだろう。

それでブッダは、ブッダガヤから約100㎞離れたかれらの居場所・ヴァーラーナシーへ赴いたのです。

(ヴァーラーナシーは今も昔もインドの聖地。日本ではかつて「ベナレス」と、イギリス植民地時代の発音で呼ばれていた。)

ブッダゆかりの主な土地

 

ヴァーラーナシーの北約10㎞の郊外に、鹿のおおく住むしずかな森があります。

「サールナート」または「鹿野苑(ろくやおん)」と呼ばれるその場所に、かつての苦行仲間であるコンダンニャ、ヴァッパ、バッディヤ、マハーマーナ、アッサジという5人がいました。

ゴータマ・ブッダはかれらにたいして、初めて(初)みずからの教え(法輪)を説き(転)ます。

はじめは懐疑的だった苦行仲間たちも、ゴータマの様子をみてその教えを真剣に聞きはじめます。

そしてゴータマの悟った真実、つまり彼が苦と向き合い苦を消滅させた過程を聞くことで、知見を得、最初の仏弟子となりました。

では、彼が悟った真実とはなんだったのか?

いよいよ「四諦」の内容に入っていきます。

 

四諦の内容

ゴータマ・ブッダが初転法輪のなかで説いた「四諦」(または「四聖諦」)とは次の4つです。

  1. 苦諦(苦聖諦)=何が苦なのか
  2. 集諦(苦集聖諦)=苦の原因は何か
  3. 滅諦(苦滅聖諦)=苦を停止した状態(涅槃、解脱)とは何か
  4. 道諦(苦滅道聖諦)=苦を停止する方法とは何か

それぞれ、仏典のなかのブッダのことばを見ていきましょう。

ブッダのことば

1.苦諦(苦聖諦)=何が苦なのか

比丘たちよ、苦の真実とは以下である。
誕生は苦である。老いは苦である。病は苦である。死は苦である。
不快なものと関わるのは苦である。愛するものと別れるのは苦である。求めて得られないのは苦である。
ようするに、五取蘊は苦である。
『律蔵』「大品」

 

2.集諦(苦集聖諦)=苦の原因は何か

比丘たちよ、苦の原因の真実とは以下である。
それは、再度の生存へみちびく、喜びと貪りをともなった、あちこちで歓喜するこの渇望である。
つまり、快楽への渇望、有への渇望、無への渇望である。
『律蔵』「大品」

 

3.滅諦(苦滅聖諦)=苦を停止した状態(涅槃、解脱)とは何か

比丘たちよ、苦を滅する真実とは以下である。
それはこの渇望をあますところなく離れ、滅し、捨て去り、放棄し、解脱して執着のない状態である。
『律蔵』「大品」

 

4.道諦(苦滅道聖諦)=苦を停止する方法とは何か

比丘たちよ、苦を滅する道の真実とは以下である。
それは八正道である。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
『律蔵』「大品」

 

わかるようでよくわからない…

いかがですか?

ジュウゴは正直、これだけ読んでもよくわかりませんでした。

まず「五取蘊」「八正道」などという知らない単語が出てきます。

また「苦」「渇望」など、わかってるようでなんとなくしかイメージできない単語も使われています。

そもそも、ゴータマ・ブッダが何を目的にこんなことを言ったのか、彼の狙いがよくわかりません。

 

そこで以下では、四諦のひとつひとつをより深く掘り下げます。

例によって

  • 佐々木閑
  • 馬場紀寿
  • 魚川祐司

という3氏の論をもとに、21世紀の現代日本に生きるわたしたちにも実感として響くことばに直して、ブッダの言う「4つの真実」をもういちど見ていきましょう。

 

苦諦=何が苦なのか

まず四諦のひとつめ、「苦諦」をひもときます。

ここでのカギは「苦」の意味するニュアンスと、「五取蘊」です。

「苦(ドゥッカ)」とは

古代インド語で「苦」は「ドゥッカ(dukkha)」と言います。

この意味するところは、「苦しみ」というよりむしろ「不満足、満ち足りなさ」です。

日本語で「苦」というと、どうしても肉体的・精神的苦痛を思い浮かべてしまいますが、ゴータマ・ブッダが言った「苦」とはそうじゃない。

彼は、この世はすべて満ち足りないこと・思い通りにならないことばかりだと言ったんです。

ちなみにドゥッカを英語では「unsatisfactoriness」と訳します。初期仏教の理解にかんしては日本より欧米のほうが進んでいるみたいですね。


2回目の記事で見たように、ゴータマ・ブッダは王子という恵まれた身分で生まれ育ちました。

それでも彼は、満ち足りなさを感じつづけ、ついに出家したのです。

おいしい食事もいつまでも続けることはできない…。
セックスも、睡眠も、同じことだ…。
愛する家族も、いつか死んでしまう…。
わたしのこの若さも命も、いずれ失われる…。
何かひとつでいい。わたしが心から満足しつづけられる、永遠の存在というものはないだろうか…。

そんな想いで出家して、きびしい修行もおこない、そしてついに彼は悟ったのです。

そんな永遠の存在など何ひとつないと。

つまりこの世のすべては無常だから、いつまでもわたしを満たしてくれるものなど決してないのだと。

 

これが苦諦です。

修行者たちよ、わたしは満ち足りなさについて徹底的に向き合った。そして以下の真実を知った。

生まれ落ちることは、不満足のはじまりだ。

老いることも、病むことも、死ぬことも、自分の思い通りには決していかない。

不快な人と関わったり、愛する人と別れたり、求めて得られない経験などもぜんぶそうだろう。

ようするに、この「わたし」というものを成り立たせている5つの認識能力こそ、満ち足りなさの元なのだ。

ここで大事なのは最後の一文。

「ようするに、五取蘊は苦である」の一文です。

 

「五取蘊(五蘊)」とは

「五取蘊(ごしゅうん)」とは、わたしたちの生存を成り立たせている5つの執着要素のことです。

執着(仏教用語で「取」)という意味合いをのぞいて、単に「五蘊(ごうん)」という場合もあります。

「蘊」とは集まり・要素のことで、五蘊とはつまり

  • …身体、姿。
  • …認識器官からの刺激を「好き」「嫌い」などの反応として感受すること。
  • …表象作用。対象を「これはAである」と同定する能力。
  • …形成作用。なにかを形作ろうとするはたらき、意思。
  • …分節作用。この世界から対象を切り取って識別し「海」「犬」などと概念化する能力。

という5つの認識能力(正確には4つの認識能力と「色」という前提条件)です。

*五蘊については次の記事でくわしく解説しています↓
ブッダの思想に歴史好きがせまる④ 「わたし」をつくる五蘊・六処

 

ふだん「このわたし」と思っているものは、よくよく考えてみると、これら5つの機能の束でしかありません。

色・受・想・行・識という5機能から離れた、絶対的で永遠の自己など、どこにもないのです。

ここにおいてブッダの思想は、ジャイナ教やバラモン教とのちがいを鮮明にします。

つまり魂(ジーヴァ)や我(アートマン)は無いのだ、と彼は説いたのです。

1回目の記事も参照)

そして、五蘊のどれをとってみても、思い通りになるものはひとつとしてありません。

「こんな顔がよかった」「もっと身長が高ければ」と願っても満ち足りることはない…。

好き嫌いの反応も、心にうかぶイメージも、なにかをしようとする意思も、認識するこの世界も、わたしの意のままではない…。

つまりふだんわたしたちが「自分だ」「自分のものだ」「自分自身の自由意思だ」と考えているものはすべて、思い通りにしているようで、じつは思い通りになっていないのです。

これがブッダの見通した真実の1つめ。

「ようするに、五取蘊は苦である」なのでした。

 

集諦=苦の原因は何か

では、五取蘊が思うままにならず、満ち足りなさのもととなるのはなぜか?

それは渇望のせいです。

「苦の原因は渇望である」というのが、ブッダの発見した真実の2つめになります。

無常なのに「わたし」は渇望する

この世界はおろか、自分の身体と心でさえ、思うままにはならない。

それは先ほどすこしふれたように、一切が無常だからです。

この「わたし」という存在も含めてすべてが移り変わる、何ひとつとして同一のままの存在はない。これがブッダの世界観でした。

しかしこれだけでは
「へー、そう。なんか現代の統計力学素粒子理論にもちょっと似てるね」というだけでおしまいです。

ゴータマ・ブッダの思想が現代科学とちがうのは、その目的にありました。

彼はこの世界を客観的に把握したかったわけではありません。

むしろ、「なぜわたしは満ち足りなさを味わいつづけるのか」というきわめて主体的な観点から、この世界の真実を見極めようとしたのです。

以前の記事↓で、「仏教は『神』ではなく『わたし』を主語にした宗教といえます」と書いたのもこういうことです。

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では、わたしが満ち足りなさを味わいつづける原因は何か?

ここでブッダは外部ではなく内部にその原因をつきとめます。

それは渇望、つまりわれわれの生物としての欲求のせいだと。

食べたい、寝たい、子孫を残したい…。
快楽を得たい、不快を避けたい…。
大切なものがずっと有ってほしい…。
わたし自身もずっと有ってほしい…。
こんな思いは消えて無くなってしまえ…。
いっそ自殺して世界ごと無くなってしまえ…。

こうした生物としての根源的な欲求、いまこの瞬間とはちがうなにかを求める欲望、これが満ち足りなさの原因だとブッダは喝破したのです。

なぜならそうした渇望はすべて、一定不変の状態を求めるものだから。

そしてこの無常の世界で常在の何かを求めても、満たされることは絶対にないからです。

 

「縁起(えんぎ)」とは

つまり、四諦における第2の真実=集諦とはこういうことです。

修行者たちよ、満ち足りなさの原因とは生物的な欲求だ。

それはわれわれを輪廻のなかで再生産するもので、喜んだりむさぼったりしては、あちこちでダンスしている。

そして欲求を大別するなら、快楽への欲求、存在することへの欲求、存在を無くすことへの欲求の3つである。

(輪廻については後述)

このように、原因(=渇望)があるから結果(=苦)があるという考え方を、仏教では「縁起(えんぎ)」といいます。

ようするに因果関係のことで、渇望から苦へのつながりを5段階で解説したものが「五支縁起」、もっとくわしく12段階で解説したものが「十二支縁起」です。

十二支縁起

この図をみてわかるとおり、十二支縁起には五蘊も組み込まれています。

*縁起についてくわしくは、また後の記事で解説します。

とにかく、満ち足りなさの原因とは、いまこの瞬間とはちがうなにかを求める欲求である。

これがブッダの見通した真実の2つめ。

「苦の原因は渇望である」なのでした。

 

滅諦=苦を停止した状態とは

ならば、渇望を滅すれば苦も消える。

これがブッダの発見した真実の3つめです。

輪廻からの解脱

仏教では、渇望を消滅させた状態のことを「涅槃」または「解脱」といいます。

つまり涅槃・解脱という状態になることこそ、仏教の目的です。

ところで、涅槃は前回の記事で「消滅」を意味すると説明しましたが、では解脱とは何から解放され脱出することなのか?

それは、永遠の輪廻からの脱出です。


この輪廻という考え方が、現代の日本に生きるわたしたちには理解しにくいところです。

輪廻というとふつう「生まれ変わり」「転生」などと捉えて、前世のわたしはニートで来世のわたしはスライムで…、おいおいそんなの小説やマンガの話だろうとバカにしてしまいます。

しかし、ゴータマ・ブッダの考える輪廻とはそうじゃありません。

そもそもブッダは魂や我といった永遠不変の自己を否定したので、彼の考える輪廻は、自分という存在がいつまでも繰り返すという意味のものではないのです。

ブッダの考える輪廻とは、一言でいえば、エネルギーの離合集散です。

ここでいうエネルギーとは、渇望によって生み出されるなんらかのはたらき、仏教用語に当てはまれば五蘊の「行」にあたります。

つまり、ブッダの言う輪廻とはこういうことです。

わたしの日々の絶え間ない渇望が、やがてわたしが死んだあともこの世界になんらかのはたらきとして残る。
それはこの無常の世界で、形成作用としてはたらく。つまり局所的なエントロピーの減少をもたらす。
局所的なエントロピー減少とは、生命存在のことだ。
だからわたしの残した渇望のはたらきが再びこの世界に生命を存在させ、誕生させる。
こうしてふたたびその生命は老病死を味わい、不満足(苦)を生じるのだ…。

 

渚カヲルの台詞から考えてみよう

輪廻を以上のように捉えると、再生産された生命は自分であるともいえないし、自分でないともいえません。

ただ変化したもの。

サナギが蝶になったようなものです。

こうした、初期仏教の考える輪廻のしくみ。

これが難しければ、 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qに出てくる渚カヲルくんのセリフを紹介します。

渇望がなんらかのエネルギーとしてこの世界に残り、いつか再び集まって、形を成して、またこの世に存在する、というイメージに近づくことができるでしょう。

魂が消えても願いと呪いはこの世界に残る。意思は情報として世界を伝い変えていく。いつか自分自身のことも書き換えていくんだ。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q / 渚カヲル

 

しかし何度輪廻しても、生命の本来的な欲求に従っているかぎり、不満足の連鎖は終わりません。

渚カヲルが碇シンジを幸せにできないように、思い通りにならないこの世界と自己は形を変えて続いていくのです。

だからこそ、「愛する人を幸せにしたい」などという渇望から離れる。

すべての渇望を消し去って、形成エネルギーの元を断ち切って、再度の生存=苦がつくられないようにする。

これが解脱なのです。

そしてこの状態になることは可能だ。

現にいまわたしが達成してみせた。

これが、ブッダの悟った真実の3つめ。

「渇望を消し去れば苦はなくなる」でした。

私に不動の解脱がおこった。これが最後の生である。もはや再度の生存はない。
『中部』26「聖求経」

 

道諦=苦を停止する方法とは

さいごに、四諦の4つめ「道諦」をひもときます。

ここでのカギは「正」という価値判断の基準が、わたしたちの考える道徳的なものではないということです。

中道=八正道

「正しいこと」というと、わたしたちはふつう「世の中でまっとうに生きる道」などと捉えます。

しかしゴータマ・ブッダの半生とその後の言動をみると、とても彼が「まっとうに生きること」を正しいと表現したとは思えません。

なにせ彼は働くことをやめ、妻子を守ることもやめて、物乞いになった人です。

そして悟りを開いたあとは周囲にも、わが子にさえ、自分同様の生き方を勧めた人です。

(魚川祐司氏のことばを借りるなら、「異性とは目も合わせないニートになれ」と要求したわけです)。

だからブッダの言う「正しいこと」とは、道徳的な意味じゃありません。

四諦の4つめで語られる「正」とは、「渇望から離れるための正しい方法」という意味なのです。

 

では、渇望から離れた状態つまり涅槃・解脱という状態になるための方法とは何か。

ブッダは前提として、その方法は世俗の生き方にはなく、また苦行でもないと説きます。

つまり涅槃の状態になるには、人間社会のなかで生きていてはダメだ、けれど修行者になって流行りの苦行をつづけることでもダメだ、と言いました。

これがいわゆる「中道」です。

そして中道の具体的な内容が「八正道」なのです。

比丘たちよ、これら2つの極端な行いの外に、中道が存在する。
中道こそ眼を生み、知を生む。そして寂静・証知・菩提・涅槃へ通ずる。
この中道を何と名付けようか…。
これが八正道である。
『律蔵』「大品」

 

「戒・定・慧」

四諦のなかで語られている八正道とは、以下の8つです。

  1. 正しい見解(正見)
  2. 正しい意思(正思)
  3. 正しい言葉(正語)
  4. 正しい行為(正業)
  5. 正しい生計(正命)
  6. 正しい努力(正精進)
  7. 正しい留意(正念)
  8. 正しい瞑想(正定)

この八正道は全体で3つに分類できます。

  • 正しい見解、正しい意思→英知(慧)
  • 正しい言葉、正しい行為、正しい生計→習慣(戒)
  • 正しい努力、正しい留意、正しい瞑想→精神集中(定)

この戒(かい)・定(じょう)・慧(え)という3つすべてを守ることが涅槃へいたる道だ。

これがブッダの教える真実の4つめです。

修行者たちよ、不満足を消す方法は以下である。

それは8つの聖なる道だ。

つまり、四諦を真実だと認識し(正見)、つねに心に感ずること(正思)。

また言動に注意し(正語・正業)、生活においては働かず異性と交わらず何も所有せず托鉢だけで生きること(正命)。

そして高次の善を増すように努力し(正精進)、身体と刺激と心と真実に意識をいきわたらせ(正念)、深い段階へと瞑想修行をおこなうことだ(正定)。

 

まとめ

以上、四諦の内容をくわしく見てきました。

あらためて、ごく簡単にまとめると、ゴータマ・ブッダのいう4つの真実とは以下のとおりです。

  • 苦諦:一切は不満足に終わる。なぜなら「わたし」を構成する5つの認識能力すべてが、思い通りにはならないからである。
  • 集諦:不満足の原因は、いまこの瞬間とはちがうなにかを求める欲望だ。無常の世界で常在を求めているからだ。
  • 滅諦:その渇望を消滅させれば、不満足は消える。そして渇望がふたたび生命存在をつくることもなくなる。
  • 道諦:渇望を消滅させるための正しい道は中道であり、つまり8つの方法である。

ブッダがここまで語ったとき、苦行仲間のひとりコンダンニャに知見が生まれました。

それを見てブッダは「ああ、コンダンニャは知った、コンダンニャは知った」とワクワクして言ったそうです。

こうしてブッダの伝道の旅がはじまりました。


読者の方はいかがでしょうか?

ジュウゴは実はまだ、わかったようでよくわからない状態です。

五蘊が「わたし」を構成するってどうゆうこと…
十二支縁起のつながりがよくわからないぞ…
八正道の中身をもっと具体的に知りたい…
「無我」についてまだ解説してないやんけ…
そもそも涅槃の状態になったらどうなるの…
本当にそういう状態が人間に到達可能なの…

こうした点について、次回以降もっと深く迫ってみます。

次回は五蘊について(ついでに六処も取り上げます)。

ただ、ブッダの思想はまるで真空を観察しているようで、語れば語るほど言語の限界を思い知らされます。

言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

いまのジュウゴにできることはただ、ブッダの思想をいろんな角度から示すことだけです。

ブッダの思想に歴史好きがせまる④ 「わたし」をつくる五蘊・六処

[前回までの記事]

  1. ブッダの思想① 仏教が登場した背景
  2. ブッダの思想② ブッダの半生と悟りの境地

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