ブッダの思想に歴史好きがせまる④ 「わたし」をつくる五蘊・六処

歴史

初期仏教の思想にせまる連載、4回目です。

前回はゴータマ・ブッダの説いた4つの真実(=四諦)の内容を解説しました。

今回から、彼の思想をさらに掘り下げてくわしく見ていきます。

まずは「五蘊(ごうん)」と「六処(ろくしょ)」について。

五蘊とは・六処とは何か?

これらが仏教思想全体のなかでどう位置づけられるのか?

こうした点をひもときます。

仏教思想における五蘊と六処

最初に、五蘊と六処がブッダの思想のなかでどう位置づけられるのか、かんたんに概観してしまいましょう。

悟りの第一歩はありのままに見ること

前回までの記事で、ゴータマ・ブッダが目指し至ったのは「涅槃」という境地だったと述べました。

そして彼は初転法輪で「君たちも涅槃の境地にたどりつける!」と説きました。

涅槃とは苦の消滅のことで、もはや不満足を味わうことのない状態です。

人間が、生きながらにして、不平・不満をみじんも心にきたすことのない状態になる。

そんな抜本的なマインドセット変革を起こすには、渇望の火を消すことだと、ブッダは言いました。

じゃあ、その渇望(=いまこの瞬間とちがう何かを求める気持ち)を消すためには具体的にどうすればいいのか?

ブッダはいいます。

まず「このわたし」と「この世界」をありのままに見ることから始めなさい、と。

 

「わたし」と「世界」の構成要素

では、「わたし」とは何か?

この問いにブッダは「諸機能の集まり」だと答えました。

また、「世界」とは何か?

この問いにブッダは「諸機能によって認知されるもの」だと答えました。

この諸機能というのがつまり、五蘊と六処なのです。

五蘊と六処

五蘊と六処

そして、この五蘊と六処にはつねに渇望が伴っているから、みんな「わたし」と「世界」をありのままに認知することができない。

わたしはこうあってほしい、世界はこうあってほしいという渇望込みでいつも認知するから、ものごとのありのままについて無知である。

だからみんないつまでたっても、終わりのない不満足を味わいつづけるのだ。

ほら、渇望なしでものごとを見てごらん。

わたしも世界も、無常で・苦で・無我だろう。

そう観じつづけたら、やがてそんな対象からは自然と厭い離れる。

厭い離れたらやがて、貪ることもやめる。

貪りをやめたら、それは解脱だ。

解脱したなら「わが迷いの生はすでに尽きた」と知るだろう。これが涅槃の境地なんだ…。

 

これがブッダの説いた、涅槃に至るための方法です。

もうちょっとわかりやすく?

はい。

以下、この論理にそって各内容をよりくわしく見ていきましょう。

 

五蘊とは?

はじめに五蘊(ごうん)について解説します。

五蘊とは「5つの集まり」という意味で、色・受・想・行・識のことです。

この5つの認識能力が「わたし」と「世界」を成り立たせている構成要素だと、ブッダは言いました。

色(しき)

「色(しき)」とは、肉体あるいは物質のことです。

五蘊のなかで唯一、認識能力ではないんですが、物質がなければわたしも世界も成り立たないので、認識能力の前提ともいえます。

ちなみに古代インドでは4元素説が主流だったので、ブッダも色をそのように定義しています。

では、比丘たちよ、色とは何であろうか。
四つの元素(地・水・火・風)と、四つの元素によって造られたもの、これを名づけて色となす。
『相応部22-57』

 

わたしたちはふつう、形あるものはいつまでも永続すると思い込んでいます。

いまこの記事を読んでいるスマートフォンも、周囲のいろんなモノも、わたしのこの体も、いつか壊れるということは頭ではわかってるけどしばらくの間はそのままだ、というかそう簡単になくなったりはしないだろう、だっていま現に存在してるしこれまでも存在しつづけてきたじゃないか…。

これが渇望込みの認知です。

そして、ありのままの世界はそうなってはいません。

スマートフォンはある日突然壊れます。
災害もある日突然訪れて、いろんなモノを破壊します。
そして死もまた、日常のあらゆる場面に隠れています。

つまり、色は無常なのです。

以下、受・想・行・識についても(いちいち書きませんが)この無常が当てはまります。

 

受(じゅ)・想(そう)

「受(じゅ)」とは、感受作用のことです。

つまり外界からの刺激にたいして何らかの反応をすることで、「これは嫌い」「それは心地いい」「あれはどうでもいい」などの心のはたらきが「受」に当たります。

また「想(そう)」とは、表象作用のことです。

表象とはちょっと難しい単語ですが、ひとことで言えば「人が作る像」のこと。

たとえば「チキンカレー」と言われてあるイメージを思い浮かべたら、それはチキンカレーの表象です。
それだけでなく、チキンカレーの絵を描いても、その絵も表象に当たります。
また「チキンカレー」という言葉も、チキンカレーそのものではなく代わりをしているので、表象です。
そして、実際にカレー屋さんに行ってチキンカレーが目の前に出てきて、「これはチキンカレーである」と思う。そう思った観念・命題もまた、表象に当たります。

つまり表象とは、モノ自体じゃなくてモノの代わりをするもの。

チキンカレー自体の代わりに、イメージや絵や言葉や観念や命題でチキンカレーを表したもの。

だから「想」とは、わたしたちがモノ自体の代わりにモノの像を作る心のはたらきです。

よって英語のrepresentation(表象)には「表現・肖像・心像・代表・代理」などといろんな訳語が当てられるわけです。

 

行(ぎょう)・識(しき)

「行(ぎょう)」とは、意思のことです。

つまり何かをしようとする心のはたらきですが、仏教における「行」は、諸行為の原動力でもあります。

たとえば目の前に細長くてニョロニョロ動くものが現れて「これはヘビだ」と思う認識行為(=想)、それを「気持ち悪い」と感じる認識行為(=受)、これらの元になっているのが「行」なのです。

だからブッダの思想における「行」とは、混沌としたなんだかよくわからない世界から「ヘビ」という表象や「気持ち悪い」という感受を作り上げる(そして後述する「識」も作り上げる)、一種の形成作用といっていいでしょう。

エントロピー(=無秩序さ)を減少させるはたらき、といってもいいかもしれません。

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そして「識(しき)」とは、識別作用のことです。

つまり、この世界から「スマートフォン」「チキンカレー」「ヘビ」といった概念を取り出す行為であり、言語活動といってもいいでしょう。

識については、ソシュールの言語理論が理解の助けになります。

構造主義の父ともいわれるフランスの言語学者ソシュールは、『一般言語学講義』のなかでこう述べました。

モノや概念が先にあって、人がそれに名前を付けているのではない。
むしろ非定型で混沌としたこの世界の一部に名前を付けることで、人はモノや概念を切り出しているのだ、と。

 

たとえば2007年にiPhoneが登場するまで、わたしたちは「スマートフォン」という概念を持っていませんでした。

しかしiPhoneやAndroidが急速に普及し、「スマートフォン」と名付けられることで、初めてわたしたちは従来の「携帯電話」と「スマートフォン」を区別するようになりました。

つまり「スマートフォン」という命名によって、わたしたちはこの世界からスマートフォンという意味のまとまり=概念を切り出したのです。

だから識とは、世界から意味を切り出すはたらき。

ちょうど満天の星空を区切って星座を見出すように、無意味で無秩序な世界から言語活動によって概念を切り出す心のはたらきなのです。

 

以上が色・受・想・行・識という五蘊です。

この5つの他にまだ、わたしの意識だ・わたしの内面だと言えるものがあるでしょうか?

ないですね。

だからブッダは「わたし=五蘊」としたのです。

そして五蘊によって認識されるものを「世界」としたのです。

 

六処とは?

五蘊では、認識能力という点から「わたし」と「世界」を説明しました。

これに対して、感覚器官という観点から「わたし」と「世界」の構成要素を説明するのが、六処(ろくしょ)になります。

眼・鼻・耳・舌・身・意

六処の内容は五蘊ほどむずかしくありません。

  • …視覚器官
  • …聴覚器官
  • …嗅覚器官
  • …味覚器官
  • …触覚器官
  • …知覚器官、心

の6つが六処です(六根とも言う)。

さいごの「意」というのは感覚を感知する元であり、同時に、抽象的な考えや論理といった五感で捉えられないものを感知する器官ともいえます。

この六処に、六処が捉える対象を加えると、十二処となります。

 

十二処

六処それぞれが捉える対象は以下のとおりです。

  • …視覚の対象。現代風にいえば電磁波
  • …聴覚の対象。現代風にいえば音波
  • …嗅覚の対象。現代風にいえば嗅覚受容体と結合する分子
  • …味覚の対象。現代風にいえば味覚受容体と結合する分子
  • …触覚の対象。皮膚を変形させるもの
  • …知覚の対象。抽象概念も含めたすべて

これら6つを六境とも言います。

つまり十二処とは六根+六境のこと。

そしてブッダはこの十二処を「一切」と呼びました。

十二処

十二処

 

仏教に「一切皆苦」ということばがあります。

これはつまり、「わたしを構成する6つの感覚器官と、その感覚器官が捉える6つの対象は、みんな苦なのだ」という意味です。

ちなみに「諸行無常」の「行」も、「諸法無我」の「法」も、ここまでの話で何を意味するのかわかりましたね。

無常と苦と無我については次回の記事でくわしく解説します↓

ブッダの思想に歴史好きがせまる⑤ 無常・苦・無我

 

十八界

六処・十二処をさらに拡張して、十八界と呼ぶこともあります。

十八界にはさらに以下6つが含まれます。

  • 眼識…眼と色の接触によって生じる認知
  • 耳識…耳と音の接触によって生じる認知
  • 鼻識…鼻と香の接触によって生じる認知
  • 舌識…舌と味の接触によって生じる認知
  • 身識…身と触の接触によって生じる認知
  • 意識…意と法の接触によって生じる認知

これら6つを六識ともいいます。

十八界

十八界

 

六処であれ十二処であれ十八界であれ、あるいは五蘊であれ、ようするにブッダが言いたいことはひとつです。

「わたし」というのは、これら諸機能の集まりだ。

「世界」というのは、これら諸機能によって認知されるものだ。

これら諸機能のほかに、わたしの本体やわたしの魂や自己存在の基盤といったものなどない。

これら諸機能で認知されるもののほかに、世界があったりもしない。

まずこの事実をとくと噛みしめなさい。

この事実が飲みこめたなら、次の段階だ。

五蘊や六処といった諸機能には、つねに渇望が伴っているという事実も、噛みしめなさい…。

こうしてブッダは論を進めます。

 

ありのままを認知できないワケ

京都 愛宕念仏寺の羅漢像

京都 愛宕念仏寺の羅漢像

五蘊や六処にはつねに渇望が伴っていて、だからみんな「ありのまま」を認知することができない、とブッダは言いました。

これは具体的に、どういうことでしょうか。

渇望を伴った五蘊

たとえば、わたしたちは知らず知らずのうちに、自分の身体(=色)はずっと変わらず存在するものだと思い込んでいます。

また、自分の身体は自分の思い通りになるものだとも思っています。

そして、この身体は「自分のものだ」と信じて疑いません。

しかし実際はそうじゃない。

この身体は時とともに変化して、体型は変わり、皮膚はしぼみ、いずれ病気に罹って、やがて死んで灰になります。それどころか新陳代謝があるので、昨日の身体と今日の身体と明日の身体はまったくの別物です。

なので、「理想の体型になってずっと維持したい」「老いたくない、病気になりたくない」「ずっと有りつづけたい」と願っても、この身体はけっして思い通りにはなりません。

ならば、この身体を「自分のものだ」と信じる根拠は、いったいどこにあるのでしょうか?
つねに移ろい変わり、やがて消滅するこの身体…。
けっして自分の思い通りにはならないこの身体…。
そんなものを「自分だ、自分自身だ、自分のものだ」と信じてしがみつく理由は、どこにもないのです。


受・想・行・識についても同じことがいえます。

「彼のことが好きだ」という感受に、いつまでもしがみつく。

「行政はこうあるべきだ」という表象に、いつまでもしがみつく。

「これは自分の決めた道だ」という意思に、いつまでもしがみつく。

「日本」という概念に、いつまでもしがみつく。

本当は、どれひとつとして、永遠で思い通りになるものなどないのに、わたしたちはそれに執着してしまいます。

なぜなら、その感受は・表象は・意思は・概念は「わたしのものだ」と信じているからです。

これが、渇望を伴ったわれわれの五蘊です。

こうしてわたしたちは、「わたし」という架空の立脚点をもとに、この世界をゆがんだ形で認知するんです。

本当は無常で苦で無我であるものを、そうじゃないと考えてしまうのです。

 

渇望を伴った六処

六処についても同じです。

たとえば、あなたがバーで一人で飲んでいるとき、ものすごい美人がとなりに座って「よく来られるんですか?」と話しかけてきたとします。

そのときあなたの眼は「美人」という認知をします。

あなたの耳は「甘くていい声」という認知をします。

あなたの鼻は「かすかなシャンプーの香り」という認知をします。

あなたの舌は「ソルティードッグがいつもよりおいしい」という認知をします。

あなたの身は「いま肘が触れあった」という認知をします。

そしてあなたの意識は「今日はいい日だ」という物語を作り出すのです。


しかし実際はそうじゃない。

あなたの眼が感知したものは、ただの「同種族の若いメス」らしき映像です。

あなたの耳が感知したものは、そのメスの口から発せられた音波です。

あなたの鼻が感知したものは、嗅覚受容体のひとつと結合した分子です。

あなたの舌が感知したものも、味覚受容体のひとつと結合した分子です。

あなたの身が感知したものは、腕の皮膚のかすかな変形です。

そしてあなたの意識は、以上5つの感覚を知覚しただけなのです。

…と頭ではわかっても、こんなふうには思えませんね。

なぜならわたしたちは、「わたし」という存在がここにあって、この肉体も精神もわたしの思い通りで、だからこの行きつけのバーも突然現れた美人の彼女も「わたし」が認知するんだから実在していて、この先もずっと有るだろう…と信じて疑わないからです。

これが、渇望を伴ったわれわれの六処です。

こうしてわたしたちは、「わたし」という架空の立脚点をもとに、この世界をゆがんだ形で認知するんです。

本当は無常で苦で無我であるものを、そうじゃないと考えてしまうのです。

 

初期仏教は万人向けじゃない

以上のように、ブッダの考える「このわたし」と「この世界」の本当の姿とは、無常・苦・無我です。

  • 無常:すべては移ろい変わる、一時として同じ状態のものはない
  • :すべては思い通りにならない、やがて不満足に終わる
  • 無我:自分だ・自分自身だ・自分のものだというようなものはない

でもわたしたちは、心の底から「そのとおりだ!」とはなかなか思えません。

だって生まれた時からの、生命体としてのクセが染みついてしまっているからです。

たえず無常から目をそむけて常在の何かを形作り、認知し、維持しようとする。
また少しでも自分と周囲を思い通りにしようとし、満足を増やそうとする。
そしてそんな日々の生活の中心にはつねに「わたし」がいる…。

これが人間のふつうの在り方だからです。

渇望を伴った五蘊や六処で、当たり前なんです。


よってブッダの思想とは、世の流れに逆らったものです。

人間が、人間として生きていく、その在り方を変えろという思想なので、とても万人向けの宗教ではありません。

仏教が万人向けの宗教になったのは大乗仏教以降のことで、それ以前の初期仏教は、ごく限られた人にだけ向けられた教えでした。

誰に向けられた教えか?

生きていくことは苦しいと実感している人です。

たとえ今の生活を捨ててでも、この苦しみを取り除きたいと心底願っている人です。

そんな人にだけ、五蘊も六処も本当は無常で苦で無我である、という教えが効いてくるんです。

したがって、五蘊や六処から生じる喜びや楽しみに歓喜して、社会生活に満足している人には、これからの話は必要ありません。

その歓喜も移り変わる、この満足もいつか不満足に終わる、と感じたとき。

そのときはじめて、次の話題が響いてきます。

そう、無常・苦・無我です。

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