前回に続き、世界三大宗教の本質を非信徒の立場から簡単にまとめます。
今回は仏教の本質について。
また記事の最後には、まとめに加えて参考文献と、神秘主義とは何かと、この記事を書いた人間の宗教的立場についても併記します。
なおキリスト教、イスラーム教の本質については前回の記事をご覧ください。
→世界三大宗教の本質を簡単にまとめてみた キリスト教とイスラーム教
仏教の本質
この主張が、仏教における本質的な教えです。
仏教では、この苦しみを初めて消滅させたのがガウタマ=シッダールタ、つまりブッダ(=目覚めた人)とします。
なので仏教とは「ブッダの教え」でもありますが、それ以上に「ブッダになる教え」という宗教といえます。
ただ仏教においては、苦しみの原因を取り除く方法が何かという点で、宗派ごとに大きな違いもあります。
仏教の共通点と相違点、それぞれをみていきましょう。
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仏教における世界認識
キリスト教もイスラーム教も、この世界を認識する主体は「神」です。
なぜなら神こそが世界の創造主であり、また全知全能であり、そして唯一絶対的な存在だからです。
なので人間は神から創られ、見られ、試され、生かされるいわば客体となります。
しかし仏教において、この世界を認識する主体は「神」ではありません。「わたし」という一個人の人間です。
ここにまず、世界認識の根本的なちがいがあります。
ようするに仏教は「神」ではなく「わたし」を主語にした宗教といえます。
では「わたし」を主語にして、仏教はこの世界をどう見るのか。
一言でいえば、苦しみの人生です。
それはちょうどサウナの中に居続けるようなもので、わたしの生を根底から規定します。
喜びや楽しみもあるけれど、サウナの熱をずっと忘れることはできません。
たとえ物質的に恵まれても、サウナの中にいることに変わりはありません。
また心の苦悩を取り除いたと思っても、それはサウナのドアが開いて一瞬涼しく感じただけのこと、ドアが閉まればまた苦悩は続きます。
そしてわたしはやがて老いて、病気になって、死んでゆきます。
こうした苦しい生は永劫に繰り返されるのです(=輪廻)。
そう捉えると、「わたし」は、この苦しみの永続から脱するすべはないものかと考えます。
仏教における救いの論理
「解脱する」
「悟りを開く」
「涅槃(ニルヴァーナ)に入る」
「成仏する」
「彼岸に達する」…。
仏教ではこれらはすべて、苦しみの永続から完全に脱して二度ともどることはないという状態になることを指します。
そのような状態になるためには、苦しみの原因を元から断てばいい。
苦しみの原因は生存欲(=煩悩)だ。とくに煩悩のなかでも、以下2つに対する無知(=無明)が根本だ。
- すべては移り変わる(=無常)
- 「わたし」というものはない(=無我)
だから煩悩を消して、無常と無我を心から自覚すれば、平穏で安楽になれる。
これが仏教における救いの論理です。
そしてここまでが、おそらく、ガウタマ=シッダールタ自身が説いた教えの本質でもあります。
この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。
(何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。-諸々の生存に対して執著することなしに。
スッタニパータ776-777(第四 八つの詩句の章)
ガウタマ=シッダールタの死後、弟子たちは彼の教えをまとめて徐々に体系化しました。
十二支縁起(=苦しみ発生のメカニズム)、四諦(=4つの真実。「一切は苦しみである」「苦の原因は煩悩である」「煩悩を消せば苦が消える」「煩悩を消す方法がある」)、八正道(=煩悩を消すための8つの正しい方法)、中道(=極端を避ける態度)などです。
こうしたブッダの教えをもとに、出家して俗世を離れ、戒律を守り瞑想するという修行によって、悟りを目指す。
これが初期仏教における教団の姿でした。
しかしブッダ死後100年あまり経った頃から、戒律(教団のルール)の解釈のちがいによって、あるいは教えの解釈のちがいによって、仏教はさまざまに枝分かれしていきます。
それに伴い、「これが本当の教えだ」という経典がたくさん生み出され、世界認識の細部が異なっていき、そして救いの論理も多様化していくのです。
宗派ごとのちがい:インド仏教
まず紀元前4~3世紀頃に、教団は上座部と大衆部に根本分裂します。
これは金銭の布施を受けとるかどうかという戒律をめぐって、上座の保守派と大衆派とが争ったためともいわれています。
上座部も大衆部もその後、教義の解釈をめぐって分裂し、18~20の部派に分かれました(部派仏教)。
たとえば紀元前1世紀頃に上座部から分かれた説一切有部では、「三世実有説」で無常を説明しました。それによれば、この世界の基本要素が未来において因果則によって結びつき、現在という映画のフィルムに映し出され、そして過去に去っていくとします。
またこの時代(紀元前4~1世紀頃)、はじめてブッダの教えが口伝から文書化され、経典となりました。
これら初期経典は総称して阿含経またはニカーヤと呼ばれます。
上述の「ブッダの教えの体系化」はこれら初期経典にその痕跡をみることができます。
また初期経典のなかでも時代が下るにつれ、輪廻・業(カルマ)・因果応報といったインド古来の思想が前面に打ち出されるようになりました。
こうした輪廻業報思想に、「空」の概念と菩薩信仰がミックスされ、従来の部派仏教に対抗する形で現れたのが大乗仏教です。
般若経、維摩経、法華経といった大乗経典のなかで説かれた主張は次のとおりです。
まず一切は空であるから輪廻の主体も存在しない。ならば「自業自得」は成り立たず、自らの善行が他人の利益になる(=利他行)という「廻向」が可能だ。そして我々は出家者じゃなくても、過去世でブッダに会っているからみんな菩薩(=悟りを求める人)である。だから菩薩として日々努めよう。そうすればみんなで涅槃に入ることができる。…と、先達の菩薩たちが説いている。
このような新しい考え方が、在家者の期待に応える形で、紀元前後から3世紀にかけて形作られました。
また同じ頃に生まれた浄土教では、こうした考え方をさらに進めて、日々努める内容は善行ではなく念仏でいいとします。
なぜなら浄土教では、先達の菩薩のひとりが衆生を救いたいと願い、長い長い輪廻の果てついに阿弥陀如来となって、パラレルワールドのひとつである極楽浄土が生まれ、そこに往けばみんな解脱できるからです。
こうした大乗思想をまとめて理論化したのが、紀元2-3世紀頃に活躍した竜樹(ナーガールジュナ)でした。
竜樹の説いた、すべて言語によって概念化された虚構であり実体はないという「空」思想は、中観派と呼ばれます。
これに対し、「阿頼耶識」という主客一体の真実在のみを仮定する立場も現れ、唯識派と呼ばれました。
宗派ごとのちがい:インド以外の仏教
大乗仏教の登場によって、仏教における救いの論理はその方法論で大きく2つに分かれました。
かんたんにいえば自力か、他力かのちがいです。
そして部派仏教・大乗仏教それぞれのなかでさらに色々に分かれた宗派ごとの教えが、インドから東に伝わっていきます。
紀元前3世紀頃には、上座部系の一派がスリランカに伝わり、その後は東南アジア各地に伝播しました。
こうした南伝仏教は相互に影響を与えあい、やがて仏典結集などによって正統派が定められていきました。
今日のテーラワーダがそれに当たります。
一方、紀元前後頃から北伝した仏教は部派仏教・大乗仏教それぞれの経典が入りまじり、7世紀頃に生まれた密教も加わって、多様に展開しました。
中国ではブッダの真の教えを見極めようと、経典を整理・体系化する作業(教相判釈)が多くの僧によっておこなわれました。この整理・体系化によって、天台宗や華厳宗、法相宗などが生まれます。
また中国古来の老荘思想に影響をうけて禅宗が生まれました。曹洞宗、臨済宗などがこれに当たります。
日本には6世紀から、これら中国生まれの宗派とそれ以前の宗派の経典ぜんぶがごっちゃに伝わりました。
しかしやがて日本にも独自に教えを整理・体系化する僧が現れ、かれらの教相判釈によって真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが生み出されていきました。
そしてチベット仏教は、これら中国・日本の漢訳経典とはまたちがったルートで伝わり発展した宗派です。
部派仏教における出家制度、大乗仏教における顕教の思想哲学と密教の実践、これらぜんぶを総合し、さらに土着のボン教までとりいれているのが特徴になります。
以上のように、仏教もまたキリスト教やイスラーム教とおなじくさまざまな宗派に分かれ、その世界認識において細部で異なっています。
また救済の方法という点でも、つまり苦しみの原因を取り除く具体的な方法においても、宗派ごとにかなりの相違があります。
戒律の徹底と瞑想によって煩悩を消すのか。
日常的な善行によって業を浄化していくのか。
念仏を唱えて極楽往生するのか。
題目や坐禅によって自らの仏性を悟るのか。
世界の真理を体得して即身成仏するのか…。
方法はさまざまですが、しかし仏教の主張の中心部分はみな同じです。
これが仏教をして仏教たらしめている本質的な教えなのです。
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まとめ
キリスト教の本質
人間は罪深いけど、イエスが救世主(キリスト)だったから大丈夫。「復活」がその証拠だよ。
イスラーム教の本質
不道徳で享楽的な人間が、自分で自分を律するなんてムリな話。みんなご主人様(=神)の奴隷になりなさい。
仏教の本質
生きることは苦しいけれど、苦しみには原因があり、その原因を取り除く方法もある。だから苦しみを消滅させることは可能だよ。
以上がキリスト教、イスラーム教、仏教という世界三大宗教の本質的な教えです。
それぞれの宗教を理解したいという方の一助になれば幸いです。
(前回の記事はこちら↓)
なお、主な参考文献は以下のとおりです(キリスト教については以前の記事で調べたので割愛)。
- 『コーラン』井筒俊彦、岩波書店
- 『日亜対訳 クルアーン』中田考監修、作品社
- 『イスラーム百科』キャロル=ヒレンブランド(蔵持不三也訳)、原書房
- 『イスラーム生誕』井筒俊彦、中央公論新社
- 『イスラーム思想史』井筒俊彦、中央公論新社
- 『イスラーム哲学の原像』井筒俊彦、岩波書店
- 『ブッダのことば-スッタニパータ-』中村元訳、岩波書店
- 『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳、岩波書店
- 『ごまかさない仏教』佐々木閑・宮崎哲弥、新潮社
- 『ブッダたちの仏教』並川孝儀、ちくま書房
- 「般若心経」
神秘主義とは何か
ここまで、三大宗教それぞれの宗派のうち、神秘主義についてはほとんど取り上げませんでした。
キリスト教とイスラーム教双方に影響を与えたグノーシス派や新プラトン主義。
イスラーム教のスーフィズム。
仏教における唯識派や密教…。
どれも大きな影響をもった系譜で、三大宗教を理解するのには欠かせません。
しかし内容や成立過程を説明しだすと大変なので、あえて省略してきた次第です。
神秘主義とは何か?
これについては、井筒俊彦がすごくわかりやすくまとめてくれています。
私の神秘主義についての理解も井筒氏の解説に基づくので、ここでは氏の文章を引用して説明の代わりとします。
ちょっと長くなりますが、稀代の碩学の文章はわかりやすくて我々素人にもすんなり入ってきますんで、どうぞ。
神秘主義の顕著な、そして決定的に重要な特徴の一つとしていわゆる現実、あるいはリアリティーの多層的構造ということを考えてみたいと思います。現実、リアリティー、すなわち存在世界が多層的構造であるという意味は、文字どおりそれが一重ではないということ。われわれがふつう現実と呼び、かつそう考えている経験的世界は、実は現実、あるいは存在の外側、表側あるいは表層であるにすぎないのであって、その下にいくつもの層が重なって垂直的方向に広がって、存在領域の多層的構造をなしている、とそう考えます。現実の深部、あるいはより正しくは複数でいくつかの深層を認めるといったらいいと思います。現実の目に見える表面の下に垂直に重なっているいくつかの存在領域、下にいけばいくほど暗くなっていきます。つまりわれわれの通常の認識器官である感覚や、知覚や理性ではとらえられないものになっていきます。
(中略)
しかし、もちろんこれだけではありません。これだけではまだ神秘主義になりません。神秘主義をして真に神秘主義という名にふさわしいものとする第二の特徴があります。それは現実がいちおう客観的にいま申しましたような多層構造をもつというだけではなくて、それを見る人間、それをそれとして認知する人間の側にも主体的に意識が同じような多層構造をもっていると考えるところにあります。つまり意識のほうにも表層から最深層に及ぶ垂直に重なった領域の広がりがある。しかも、客観的現実の多層と、主観的意識の多層とのあいだに一対一の対応関係が成り立っていると考えます。つまり簡単にいえば、浅い表面的意識では現実の浅い表面だけが見える。意識の深層には現実の深層が見えるというわけです。
ただしここでは一応、意識と現実、つまり主体と客体とを区別し対立させて考えましたが、この区別はあくまで理論的説明の便宜のために常識的な主客の区別を利用しただけのことでして、神秘主義本来の立場からすれば、本当はこんな区別があるわけではない。主体的世界と客観的世界という二つの存在秩序がはっきり区別されるのはまったく表層的事象であって、深部に入って行くにつれてこの区別は薄れてゆき、最後には全然なくなってしまう。これはおよそ神秘道にたずさわる人なら誰でも知っている実際の経験的事実でありまして、このような立場から、ひるがえって省みれば表層においてすら、実は主客の別はもともとなかったのだということになるのであります。ただ、いわゆる客観的現実と、いわゆる主体的意識とが混淆し融合して渾然たる一体をなしたものが現成している。それが見方によって、力点をどこにおくかによって、客観的現実になったり、主体的現実になったりして現れてくるだけのこと。(中略)しかしともかく理論上は、二つをはっきり区別しておいたほうが、その区別そのものを否定し去るためだけにも便利だし、また実際の修行の上でも都合がいいので、それでまずそういう区別を立てておくだけのことにすぎません。
そこで意識と現実とのこの区別をそのまま残して話を進めることにいたしますと、意識と現実とがいま申しましたように互いに対応した多層構造であるとしますと、意識の深い次元が開かれないかぎり、現実の深い次元はぜんぜん見えてこない。ところが、意識の深層というものは、われわれが自然の心の働きをそのまま放置しておいたのでは、ふつうの場合なかなか開けてこないのです。感覚や知覚や理性にもとづくわれわれの心の認識形態というものは、実に根深い、しぶといものでありまして、簡単にその支配を脱するということができるようなものではない。この心の生来の傾向を変えるためには、無理にもそれを強力にねじ曲げなければならない。そこで特別な修行とか、修道とかいうことが必要になってくるのです。
方法的組織的な修行によって意識のあり方を変える、これが神秘主義の第三の大きな特徴であります。禅宗の坐禅とか、ヒンドゥー教のヨーガとか、宋代儒者の静坐、『荘子』にみえる坐忘とか、その他いろいろの伝統的な形式がありますが、細部においてちがっているだけで、いずれも根本的にはいま申しました意識の深層を開くための修行の方法であると考えていいと思います。四方八方に散乱しようとする心の動きを抑えて、老子がいっていますように肉体の窓や戸口を全部閉ざして、つまり外に向かい、外界の対象を追いかける心の動きを抑えて、意識の全エネルギーを一点に集約し、経験的次元で働く認識機能、つまり感覚・知覚・理性などとはまったく異質の認識機能の発動をうながそうとする。こうして開かれた意識の深層意識的認識機能が活発に働き始めた心のあり方を伝統的に観想とか瞑想とかふつう呼んでおります。西洋でいうコンテンプラチオ(contemplatio)、仏教でいう三昧(samadhi)の境地であります。スーフィズムにも意識を日常的状態からしだいにコンテンプラチオの状態に導いていくための特殊な修行方法があります。
井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』p25-29 太字は引用者
記事の作成者について
最後に、当記事の作成者である私(ジュウゴ)について触れておしまいにします。
宗教について書かれたブログには、執筆者が何か特定の宗教団体に属しているにもかかわらず、それを隠してあたかも一般的認識のように主張しているものが多く見受けられます。
私はそんな態度をとりたくないので、自分の宗教的立場について、蛇足ながら書きます。
私は形式的には仏教徒です。
形式的というのは、盆には墓参りしたり、葬式は仏式だったりするからです。実家は曹洞宗の檀家です。
そして内面的にはagnostic(不可知論者)です。
神を積極的に否定する無宗教じゃなくて、人知を超えた何かが存在するかもしれないししないかもしれない、それを私は知るすべがないという立場です。
こういう立場の人、けっこう多いんじゃないでしょうか。
私がこの記事を書いた動機は、歴史好きの一環です。
歴史を理解するうえで、つまり人間社会がいまなぜこうあるのかを知るうえで、宗教をちゃんと知らないといけないと思ったからです。
恥ずかしながら、世界史好きのくせに、いままでイスラーム教の教えも、大乗仏教と部派仏教のちがいも、知りませんでした。言葉だけしか知らず、その本質は何か考えることすら怠けてきました。それで今回、ちゃんと勉強しようと思ったわけでした。
もうひとつ動機があって、それは、自己存在の深いところを宗教で規定して生きていくとはどういうことなんだろうという興味です。
これは知的関心じゃなくて、自分自身の内面的動機です。つまり私は、自己存在の深いところを規定してくれる絶対的な何かを希求する気持ちがけっこう強いほうなんです。そこに既成の宗教や啓発本をセットしようとは思わないけれど、宗教にハマる人の気持ちもなんとなくわかるんです。
だから特定の宗教を土台にして生きている人に対して、内面的な興味もまたあります。
以上2つの動機から、以前イエスの生涯について書きました。
今回、三大宗教の本質をまとめたのも、おなじ動機です。
これからも同じ動機で、宗教についての記事を書いていくつもりです。
ムハンマドについて、あるいはシッダールタについて、近々アップしていきますね。
いつになるかわからんけど、乞うご期待。
あ、宗教に詳しい方、ご意見・ご感想くださると助かります。まだまだ勉強中なんで。
2020/5追記
シッダールタ(ブッダ)の思想について書きはじめました。
→ブッダの思想に歴史好きがせまる① 仏教が登場した背景
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