人間イエスをめぐる記事の4回目です。
今回からいよいよイエスの人生に迫っていきます。
イエスが生まれたのはどんな時代か?
その当時のユダヤ教はどう違っていたのか?
またユダヤの政治的状況はどうだったのか?
そしてイエスはいつ、どこで、どんな家庭で生まれたのか?
これらの疑問に回答していきます。
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イエス誕生時のユダヤ教
前回の記事でユダヤ教のおおまかな特徴を5つ述べました。
まずはその続きとして、イエス誕生時のユダヤ教はどんな内容だったのかを見ていきます。
一言でいえば、イエスが生きたころのユダヤ教は「祭司宗教」でした。
現代のユダヤ教は「パリサイ派」
安息日にはシナゴーグ(会堂)に集まって祈りをささげる。
「ラビ」とよばれる宗教指導者がいる。
いろんな掟(律法)を守ることを生活上なにより大事にする…
こうしたユダヤ教の特徴はすべて、2世紀以降のものです。
いまでこそこうした風習をもつのはユダヤ人の大多数に当てはまりますが、イエスの生きた1世紀当時には、派閥のひとつでしかありませんでした。
その派閥を「パリサイ派(ファリサイ派)」と呼びます。
パリサイ派はユダヤ教内でも、とくに律法の遵守を大切にする派閥です。
聖書(タナハ)を読めない民衆にも律法をことこまかに教えてくれるので、どちらかといえば民衆に基盤をおいた派閥でした。
しかしパリサイ派は1世紀当時、主流派ではなかったのです。
当時もっとも力のあった派閥は「サドカイ派」、つまり神殿祭司階級でした。
神殿中心の権力派閥「サドカイ派」
年中行事や祝祭のたびに、各地の祭司が生贄をささげる。
とくにエルサレム神殿では大祭司を中心に大規模な儀式がおこなわれる。
各地のユダヤ人は罪を清めるためエルサレムに上り、生贄を買って祭司に渡して焼いてもらう。
この儀式のため、また神殿の管理や祭司の給料のため、全ユダヤ人から税が徴収される。
そして神殿には「最高法院」、つまりユダヤの最高裁判所が存在する…
これがイエスの生きた時代のユダヤ教でした。
つまり1世紀当時のユダヤ教とは、エルサレム神殿を中心とした祭司宗教だったのです。
ここからわかるとおり、1世紀当時のユダヤ人社会において、もっとも権力をもっていたのは祭司たちです。
祭司は同時に地主でもありました。
だから2回目の記事でも書いたように、小作人を働かせて大金を稼いでいました。
そしてこれら祭司たちと、おなじく金持ちの貴族たちがともに属していた派閥、それが「サドカイ派」なのでした。
サドカイ派は権力者たちの派閥なので、基本スタンスは現状肯定・現状維持です。
律法をもっと厳しく?儀式をして税金もらっとったらええやん。
ギリシア・ローマ文化を拒否しろ?そんなこと言うたかてローマ皇帝には逆らえまへん、わてら中間管理職やし。
預言者?メシア?社会不安をあおるような輩は殺してまえ。
こうした「祭司たちの権力維持のスタンス」にまっこうから異を唱え、俗世間を離れて独自の道をあゆんだのが、第3の派閥「エッセネ派」でした。
荒野の共同体「エッセネ派」
俗世から離れて、禁欲的な集団生活を送る。
聖書の研究と、戒律の徹底による清らかさの追求に生涯をささげる。
終末思想やメシア信仰を特徴とする…
修道院にも似たこうした特徴をもつ集団を、総称して「エッセネ派」と呼びます。
1世紀当時、死海周辺の荒野には、こうした集団がいくつもありました。
集団によって多少の戒律のちがいはありましたが、どの集団も神殿とサドカイ派の権威を否定することでは同じでした。
ちなみに「死海文書」を残したことで有名なクムラン教団も、こうした集団のひとつだったと考えられています。
以上のように、イエス誕生時のユダヤ教はおおきくわけて3つの分派を形成していました。
- 神殿祭司階級を中心としたサドカイ派
- 律法の遵守を民衆に説いていたパリサイ派
- 荒野で独自の生活と教えをもつエッセネ派
ちなみにエッセネ派の流れを組んだのが、洗礼者ヨハネです。
ヨハネは洗礼をほどこしながら、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説いて荒野を回りました。
そして洗礼者ヨハネのもとに弟子入りし、やがて独立したのがナザレのイエスでした。
このあたりの詳しい話は次回の記事で取り上げますね。
イエス誕生時のユダヤの政治状況
次に、イエスが生まれたころのパレスチナの政治的状況を見ていきます。
2回目の記事でもちょっと触れましたが、紀元前1世紀のパレスチナはローマの間接支配下にありました。
直接的な支配者はヘロデ王。彼が神殿祭司階級をふくむユダヤ人全員を統治していました。
ここではヘロデの死んだ年、そしてイエスの誕生年でもある紀元前4年以降の状況を、よりくわしく解説します。
ヘロデの息子たちの分割統治
ヘロデの死後、ローマはヘロデの3人の息子たちに、パレスチナを分割統治させました。
「どの息子もパレスチナ全域を統治するほどの才覚はない」と、ローマに判断されたためです。
ヘロデ=アルケラオスにはユダヤ、イドマヤ、サマリアが与えられました。
ヘロデ=フィリッポスにはパレスチナ北東部が与えられました。
ヘロデ=アンティパスにはガリラヤ、ぺレアが与えられました。
これらの地域のなかで、住民が多かったのはユダヤ、サマリア、ガリラヤでした。
そして南部のユダヤ地域と、北部のサマリアおよびガリラヤ地域では、住民の質や考え方などがおおきくちがっていました。
ユダヤ、サマリア、ガリラヤの歴史
サマリアとガリラヤは元イスラエル王国の領域でした。
それにたいして、ユダヤ地域は元ユダ王国の領域でした。
2回目の記事で書いたように、前者は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされます。
そして後者は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされます。
両者のタイムラグ、約150年。
つまりユダヤ地域の住民にとって、約150年間、サマリアとガリラヤの人々は「異国民」だったのです。
その後、ユダ王国の遺民たちはバビロン捕囚されますが、異国の地でもみずからのアイデンティティを失うことなく、むしろ強化して、ユダヤ教を完成させます。
紀元前538年以降、解放されてパレスチナに戻ると、ユダ王国の遺民たちはユダヤの同胞にユダヤ教を広めていきました。
もちろんサマリアやガリラヤに住む人々にも、です。
しかしここですでに両者が分離して約200年経っています。
考えてみてください。
朝鮮の南北分断から200年後の2150年、いまから150年後、やっと韓国が北朝鮮を併合したとしたら、韓国人は北朝鮮人を「対等な仲間」と思うでしょうか?
半異民族のサマリア人、田舎者のガリラヤ人
そんなわけで、イエスの時代でも、ユダヤ地域の人々はサマリア、ガリラヤの人々に対してある種の優越感をもっていました。
とくにサマリア地域には、アッシリア人とユダヤ人との混血が多かったことから、かれらを「サマリア人」と呼んで、半分異民族のように差別しました。
サマリア人がエルサレムでなくゲリジム山を聖地としていたことも、こうした差別に拍車をかけました。
新約聖書に「善きサマリア人」というたとえ話が出てきますが、この話はサマリア人がある種下等な人々だとみられていた、それがこの時代あたりまえだったという前提を理解しておかないと、よくわかりません。「サマリア人でさえ善いことをするのに、祭司ときたら」という文脈でイエスは語ったのです。
一方ガリラヤの人々に対しては、いちおう正統なユダヤ教徒とみられていたので、サマリア人ほどの差別はありませんでした。
しかし、ユダヤ地域の人々にとって、ガリラヤ人は田舎者でした。
世界の中心であるエルサレムから遠くはなれて暮らしている人々。
ヘブライ語の読み書きをできる人間は1割もいない、わかるのはアラム語なんていう俗な言葉だけ。
住民の多くが日雇い労働者か漁師で、神殿への納税もルーズ。
結婚や度量衡などの風習もちがい、支配者にはたえず反発する。
これがイエス当時のガリラヤ地域でした。
そしてイエスもまた、このガリラヤで生まれ育ったのです。
ヘロデ死後の混乱
さて、話題はもどって、ヘロデ死後のパレスチナの政治状況についてです。
2回目の記事でも触れたように、ヘロデ時代からユダヤ人たちのあいだでは不満がうずまいていました。
- ローマの政治的支配
- 異民族の流入
- 経済格差の拡大
これらの不満を、ヘロデは強権的な手腕で抑えていたわけです。
それがヘロデ死後、どっと噴き出します。
紀元前4年、ガリラヤのユダという人物が仲間をさそって武器庫を襲い、祭司・貴族宅の金品を奪い、ゲリラ戦を開始しました。
ゲリラ戦はガリラヤ地域以外にもひろまり、パレスチナ全土で治安がみだれました。
10年後の紀元6年には、ガリラヤのユダが全土に一斉蜂起をよびかけます。
しかしこうなると、ローマ軍がだまっていません。
ローマはガリラヤのユダをすぐに捕まえ処刑し、蜂起に加担した者も虐殺され、ガリラヤの村々もことごとく焼き払われました。
ガリラヤの住民には、失意と恐怖とトラウマが残りました。
紀元6~26年の状況
蜂起鎮圧後の、イエスに関係する政治的トピックスは主に3つです。
1つはローマ支配がより直接的になったこと。
紀元6年、ガリラヤのユダの蜂起鎮圧と同じ年、ヘロデ=アルケラオスが失政により追放されます。
ローマはアルケラオスの領土だったユダヤ、イドマヤ、サマリアの直接統治に乗り出しました。
そして残り2人の分封領主、ヘロデ=フィリッポスとヘロデ=アンティパスへの支配も強化しました。
こうしてローマはパレスチナをより直接的に支配するようになったのです。
ユダヤ人の不満がさらに鬱積したのは言うまでもありません。
のちにイエスが宣教活動をしたとき、多くの住民を惹きつけたのも、こうした不満がたまっていたからでした。
2つめはガリラヤの都市の建設です。
紀元6年から、ガリラヤの分封領主ヘロデ=アンティパスは、自分の領地の首都としてガリラヤ湖岸に都市を建設しはじめました。
紀元10年に完成したのが「セッフォリス」という都市。
紀元20年に完成したのが「ティベリアス」という都市。
どちらも名前からわかるとおり、ギリシア・ローマ風の都市です。
この2つの都市建設がイエスとどう関係するかというと、おそらくイエスは多くの日雇い労働者同様、ここに出稼ぎしていたと思われるんです。どちらもナザレから近いから。
だからイエスがはじめて都会を知ったのは、この2つの街だったでしょう。
そして裕福な権力者たちが都会でどんな暮らしをしているかも見聞きしたことでしょう。
イエスの権力者に対する反発は、この頃に醸成されたんです。
3つめの政治的トピックスは、ヨセフ=カイアファの大祭司就任と、ポンテオ=ピラトのユダヤ総督就任です。
ユダヤ人社会の頂点、エルサレム神殿の大祭司にカイアファが就任したのは紀元18年です。
その8年後、紀元26年に、カイアファのさらに上に立つ者として、ローマからピラトがやってきます。
この2人がタッグを組んだ11年間、つまり紀元26~36年は、ユダヤ人の反乱がもっとも少ない時代でした。
なぜなら2人が協力して、反乱の芽を見つけては早急につみとっていたからです。
イエスもまた、この2人によってつみとられた芽のひとつでした。
イエスの逮捕から磔刑までは「受難物語」の記事で詳述します。
さあ、準備がととのいました。
イエス誕生
ナザレのイエスは紀元前4年頃に生まれ、紀元30年頃に死にました。
その33年とちょっとの生涯を、これから追っていきましょう。
なおイエスの生没年はじめ各年代については諸説あるので、以下に述べる年はあくまで推測です。
イエスの年表
まずはじめに、イエスの生涯を年表で整理しておきます。
- 紀元前4年、ガリラヤ地方のナザレに生まれる。
- 30歳前後までガリラヤで過ごす。
- 紀元26年、家族のもとを離れて「洗礼者ヨハネ」に弟子入り。
- 紀元28年からガリラヤ地方にもどり、宣教活動をはじめる。
- 紀元30年、エルサレムで逮捕、十字架刑により死亡。
人間イエスについて確実にわかっているのはこれだけです。
宣教活動なんてわずか2年しかなかったんですね。
それでは、イエスの生い立ちについて、より詳しく見てみましょう。
ナザレの村、イエスの家
ガリラヤ湖の西25㎞ほどのところに、小高いちいさな丘があります。
ナザレはこの丘にあるちいさな村でした。
住民はぜんぶで100世帯ほど。
大半が農家か日雇い労働者で、麦やヒエをつくったり、ちょっとした大工仕事で日銭をかせいだりして生活していました。
ヨセフという若者もまた、そんな大工のひとりでした。
あるときヨセフは同じ村に住むマリアという女性と結婚します。
ふたりともユダヤ人でしたが、ナザレの村には会堂(シナゴーグ)すらなかったので、結婚式を挙げたかどうかわかりません。
なにせ貧しい村のことです、挙げたとしても質素にすませたことでしょう。
やがて、ふたりのあいだに初めての子どもができます。
生まれた男の子は、当時ごくありふれた名前である「イエス」と名づけられました。
「ダヴィデの子孫」「ベツレヘムで誕生」「処女懐妊」というウソ
新約聖書の福音書中、マタイとルカの記述では、イエスは「ベツレヘムで誕生した」とあります。
これはおそらく、福音書の作者が、イエスをダヴィデの子孫だとしたかったからです。
ユダヤ人のあいだでは、来たるべきメシアはダヴィデの子孫であると信じられてきました。
そしてその者はベツレヘムで生まれるとされていました。
ヘブライ語聖書(旧約聖書)「ミカ書」5.2
だからイエスをメシアだと信じる人にとって、つまりキリスト教徒にとって、イエスはベツレヘムの生まれじゃなきゃダメなんです。
ところが、福音書中でもイエスはよく「ナザレのイエス」と呼ばれます。
ということは、非クリスチャンがまともに考えれば、イエスはナザレで生まれ育ったと考えるのが妥当でしょう。
ナザレからベツレヘムまで120㎞以上あるしね。
車もなにもない時代、貧しい両親がわざわざそんな旅行しないって。
それからマリアの「処女懐妊」。
この記述の理由は、イエスを神の子としたかったからです。
だから福音書作者にとって、お父ちゃんがヨセフじゃまずいわけです。
ヨハネの福音書なんて、「ヨセフ」という名前は徹頭徹尾のぞかれています。
以上が「イエスはダヴィデの子孫」「ベツレヘムで生まれた」「マリアは処女で懐妊した」というウソの理由です。
ウソが悪いと言ってるわけじゃありません。
宗教とはすべて核心部分のウソを信仰で補うものです。
イエスの兄弟
やがてイエスはすくすくと成長し、鬼退治にでかけます。
父ヨセフの仕事を手伝ったり、農作業したり、セッフォリスの都市建設に日雇い労働者として出かけたことでしょう。
この当時、というかいまでも世界の大半で、子どもというのはまず労働力とみなされます。
10歳前後になったら働くというのが常識でした。
そんでイエスには、たくさんの弟と妹がいました。
これも歴史の常識で、貧しい家庭の場合、労働力は多ければ多いほどいいからです。
わかっているだけで、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという4人の弟がいたようです。
このうちヤコブは後年、イエス死後に弟子たちの筆頭となり、しばらくイエス教団を率いました。
かれら弟・妹はイエスと「腹違いの兄弟だった」、「従弟だった」という説もあります。
いずれにしろイエスは、物心ついたときから、たくさんの下の子の面倒をみる立場でした。
まるで高橋一生みたいですね。
30歳までのイエス
それから30歳まで、イエスはガリラヤ地方で暮らします。
この間、世間ではガリラヤのユダの蜂起と鎮圧があったり、その反動でローマの支配が強まったり、ヘロデ=アンティパスがギリシア風の首都を2つも建てたりしました。
そして2つの首都にはギリシア人、ローマ人、裕福な離散ユダヤ人などが住みつき、ナザレに暮らすイエスたちとは貧富の格差がますます広がっていきました。
こうした世の中を、イエスがどういう思いで見ていたのか、そしてどのように暮らしていたのか、なにもわかりません。
日雇い労働者として金持ちに雇われながら、家族をやしなうため、黙々と働いていたのかもしれません。
結婚していたのかどうかも、史料からはなにも読み取れません。
とにかくイエスは30歳まで、歴史の表舞台に出ては来ず、ガリラヤのどこにでもいる貧農の長男坊でした。
それがあるとき急に、家を捨て兄弟を置いてガリラヤを離れ、ひとり荒野に向かうのです。
そしてヨルダン川沿いで宣教する「洗礼者ヨハネ」のもとに弟子入りするのです。
ここからイエスは、われわれのよく知るイエスへと変貌していくのでした。
まとめ
ここまでの内容を、イエスの生涯に沿ってまとめます。
○イエス誕生時のユダヤ教は主に3つに分かれていた
- 神殿祭司階級を中心としたサドカイ派。
- 律法の遵守を民衆に説いていたパリサイ派。
- 荒野で独自の生活と教えをもつエッセネ派。
イエスが弟子入りする「洗礼者ヨハネ」はエッセネ派の流れを汲みます。
○イエス誕生時のパレスチナは地域ごとに歴史も風土も異なっていた
- ユダヤ地域は元ユダ王国で、ユダヤ人社会の中心。
- サマリア地域は元イスラエル王国で、サマリア人は差別の対象。
- ガリラヤ地域も元イスラエル王国で、ド田舎、貧しい。
イエスが生まれたのはガリラヤ地域です。
○イエス誕生~10歳頃
- ナザレという寒村で、父ヨセフと母マリアのあいだに生まれる。
- 父は大工。イエスも手伝ったかも。弟と妹がたくさんできる。
- この頃ガリラヤ中心にユダが反乱。ローマに鎮圧されてさらに支配強化。
○イエス10歳~30歳頃
- 2つの首都建設。イエスも日雇いに出かけたかも。
- 首都と農村との格差拡大。
- 大祭司にカイアファが、ユダヤ総督にヘロデが就任。
次回はイエスが弟子入りした「洗礼者ヨハネ」について解説します。
彼はどんな人物で、どんな教えを説いたのか?
イエスはなぜ2年で彼のもとを離れたのか?
このあたりに迫っていきましょう。
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