こんにちは、ジュウゴです。
産業革命についての2回目の記事になります。
前回の記事では、産業革命とは何か、その本質を説明しました。
今回から、産業革命がなぜイギリスで最初におこったのか?
その理由・要因を全3回にわけて、わかりやすく解説します。
[この連載の記事一覧]
歴史上、産業革命は18世紀後半にイギリスではじまり、やがて19世紀にヨーロッパやアメリカなどにも広まっていきます。
19世紀後半には明治の日本も、国をあげて産業革命をおこなっていきますね。
なぜその最初がイギリスだったのか?
フランスやオランダではなかったのか?
そのワケを見ていきましょう。
結論をいうと、産業革命の4つの要因を満たしていたこと、そしてイギリス特有の事情があったことが理由でした。
産業革命の要因(前回の復習)
前回、産業革命の本質は
「工場で機械をつかって製品を大量に生産するようになったこと」
と話しました。
そしてそのためには、
- 大量の資本
- 植民地(原料の供給地としても、消費先としても)
- 人口増加(労働力の確保)
- 科学技術の進展
という4つの要因が必要であると述べました。
これはどんな国であっても、産業革命に必要な要因です。
たとえば明治日本の場合、
- 大量の資本←地租改正と松方財政によって達成
- 植民地←1895年に台湾、1910年に韓国を併合
- 人口増加←死亡率の減少によって急増
- 科学技術の進展←欧米の技術導入によって達成
というように、それぞれの要因をクリアして、産業革命を果たしています。
じゃあ、イギリスの場合はどのようにしてこの4つの要因を満たしたのか?
それぞれくわしく見てみましょう。
大量の資本は植民地との貿易で
工場を建て、機械を導入し、たくさんの労働者を雇うには、資本(お金)が必要です。
イギリス国内にそんな大量の資本があったのは、植民地との貿易で儲けたからなんです。
インドやカリブ海周辺の貿易で金持ちが増えた
18世紀当時、イギリスはインドとカリブ海周辺に植民地をもっていました。
インドでは、「東インド会社」という貿易と現地支配をおこなう国公認の企業が、インドの綿織物や中国のお茶などをイギリス本国向けに輸出していました。
またカリブ海周辺では、プランテーション経営者が砂糖やタバコなどを栽培して、やはりイギリス本国向けに輸出していました。
これらの貿易によって、東インド会社の幹部とか、プランテーション経営者とかが、大金持ちになっていきました。
それで18世紀後半のイギリスには、たくさんお金があったんですね。
工場を建てる人は、そうしたお金持ち自身か、もしくはお金持ちや銀行から借金した人たちだったんです。
大西洋の三角貿易
ここで余談をひとつ。
カリブ海周辺のプランテーション経営者たちが、農作業の人手として使ったのが、西アフリカから輸入した黒人奴隷でした。
んで西アフリカの奴隷商人たちは何を輸入していたかというと、人を狩るための武器などでした。これはイギリス本国から。
こうしたイギリス・西アフリカ・カリブ海の3つをむすぶ取引を、「三角貿易」といいます。
この三角貿易によって、アフリカとカリブ海は原料供給地として低開発状態にとどまり、逆にイギリス本国はさらに発展していったのです。
またアメリカ大陸に多くの黒人が住むようになったのも、この三角貿易の結果です。
ついでにいうと、紅茶に砂糖を入れるというイギリス文化が生まれたのも、やはりこの貿易の結果です。
歴史を学ぶことは、現代の世界が「なぜこうあるのか」を学ぶことにつながりますね。
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ちなみに、こうした三角貿易によってイギリスの商業がものすごく発展したことを「商業革命」ともいいます。
また、アメリカ大陸の砂糖やコーヒーなどが大量にヨーロッパにもちこまれ、ヨーロッパ人の生活が変化したことを「生活革命」ともいいます。
ただ、いやなんですよね、これらのことば。「革命」のバーゲンセールみたい。なんでも「革命」つければいいもんでもないだろ。
以上。余談おわり。
植民地の獲得はフランスとの戦争に勝ったから
つぎに要因の2つめ、植民地の獲得についてです。
工場で製品を大量につくるためには、大量の原材料が必要です。綿織物だったら綿花、紙巻タバコだったらタバコの葉といった原料ですね。
そんでまた、大量につくったら大量に買ってくれる消費者もいなければいけません。
この原料の供給と消費とを、どちらもしてくれるのが、植民地という存在なんですね。
植民地獲得戦争に勝利したイギリス
イギリスはさきほど述べたように、インドとカリブ海周辺という2大植民地を持っていました。
これはなぜかというと、18世紀の植民地獲得戦争において、イギリスがフランスに勝利したからなんです。
18世紀という時代は、オランダの覇権にかげりが見えてきて、その後釜をねらってイギリスとフランスがはげしく争った時代でした。
おもな戦争を時系列でならべると次のとおりです。
- アン女王戦争(1702~1713年、北アメリカ):スペイン継承戦争に連動して。イギリス勝利。
- ジョージ王戦争(1744~1748年、北アメリカ):オーストリア継承戦争に連動して。引き分け。
- 第1次カーナティック戦争(同年、インド):オーストリア継承戦争に連動して。フランス勝利。
- フレンチ=インディアン戦争(1755~1763年、北アメリカ):七年戦争に連動して。イギリス勝利。
- プラッシーの戦い(1757年、インド):七年戦争に連動して。イギリス勝利。
これらの戦争によって、イギリスは北アメリカの東部と、カリブ海諸島の大半と、インドの拠点のほとんどをフランスから奪っちゃうんです。
アメリカとカリブ海の獲得地を図にするとこんなかんじ。
こうして広大な植民地を獲得したイギリスは、原料の供給においても、また製品を販売する市場においても、フランスより圧倒的に有利な立場に立ったんです。
「なぜイギリスで最初の産業革命がおこったのか?」
その答えのひとつは、イギリスが広大な植民地を手にしたからでした。
なぜイギリスは戦争に勝利できたのか
ただここで、「なぜイギリスはフランスに勝てたのか」という疑問がおこります。
この理由は、「国の体制のちがい」で説明できます。
イギリスは17世紀においてすでに、ピューリタン革命と名誉革命という2つの革命を経験し、政治の主権は王さまから議会へと移っていました。
また「権利の章典」という法律もできて、王さまはもう議会を無視して好き勝手することはできなくなりました。
むずかしいことばで表すと「議会主権にもとづく立憲王政」という体制になっていたんです。
いっぽうのフランスは、18世紀においても「絶対王政」です。
つまり王さまの好き勝手にできるんですね。「太陽王」ルイ14世などを思い浮かべてもらえばいいでしょう。
ちなみにフランス革命は1789年(18世紀末)にはじまるので、まだ先のことです。
こうした国の体制によって、何がいちばん違うかというと、国の信用度です。
つまり「その国はお金の運営とかしっかりするだろうか、約束は守るだろうか」という信用が、イギリスのほうが高くなるんです。
よってイギリスはフランスよりも、多額の国債を発行して戦争費用に充てることができました。
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国債とは、国の借金のことです。
だれから借金するかというと、おもにお金持ちの個人から。18世紀当時でいえば、アムステルダムの金融業者などです。
かれらは国債を買う際に、「何年後に利息つけて返すからね」という国の約束が本当に信用できるかどうか、慎重に見極めます。
見極めた結果、フランスよりもイギリスのほうが信用できたんですね。
「フランスの王さまは『借金ぜんぶチャラ』とか言い出しかねない」と思われたんですね。
こうして、ヨーロッパ中のお金がフランスではなくイギリスに集まりました。
イギリスは集まったお金をつかって、武器を買ったり戦艦をつくったりして、結果フランスに勝利したのです。
資金力のある国が戦争に勝利するというのは、近代以降の歴史の法則かもしれません。
ちなみにフランスに勝利できたのはいいんですが、イギリスは戦後、国債の返済にこまって、植民地にも重税を課します。
イギリス政府にしたら、「もともと植民地拡大のための戦争だっただろ」という理屈です。
これに反発したアメリカ植民地の人たちがその後、自分たちだけの国をつくったのはご存じのとおりです。
ここまでの話をまとめると
長くなったので区切ります。
ここまでの話をまとめると以下のようになります。
つづきは次回!
コメント
[…] >>69 すげーちょうどいいのがあったぞ https://jugo-blog.com/industrial-revolution2 […]
電気の産業革命を提案した