こんにちは、ジュウゴです。
世界史のおおきな流れを簡単に紹介する記事、第2弾。
今回はアジアの歴史です。
こまかなことは置いといて、アジア全体の歴史の流れを見通したいという人向けに、全3回に渡りわかりやすくまとめました。
「アジアの歴史」といっても、今回は東アジアや中近東などのいわゆる地域史ではありません。また、中国やインドなどの各国史でもありません。
地域史や各国史を理解するにはまず、アジア全体がどういう歴史をたどってきたのか、そういう広い視野が必要です。
なので、この記事ではアジア全体の歴史をひとくくりにして扱います。
高校で世界史を習っても、大学で歴史を専攻していても、世界史全体の流れがよくわからない…。
とくに、中国史に出てくる騎馬遊牧民ってなんなの…?
あと、イスラームの歴史がワチャワチャしててわけわからん…。
だれか、同時代の横のつながりをちゃんと解説してほしい…。
そんな人にとっては、視界の開ける記事となるでしょう。
前史:アジアの歴史は3地域で理解する
アジアの歴史全体を見通すには、上図のような3区分がおすすめ。
つまり東西の2大文明圏と、中央ユーラシアの騎馬遊牧民。
この3者のせめぎあい・まじりあいこそがアジアの歴史。
読者はこの構造を頭にいれて読みすすめてください。
ちなみにインドと東南アジアまで含めるとややこしくなるんで省きます。
*仏教誕生までの古代インドの歴史は以下の記事でまとめました。
ブッダの思想に歴史好きがせまる① 仏教が登場した背景
東西文明の誕生と統一
いまから約一万年前に、アジアの西と東で、おおきな川から田んぼに水をひく技術(=灌漑技術)が発達。
すると麦や米がたくさん獲れるから人口が増える。人口が増えると、村ができて街ができて都市ができる。結果、人間の集団に階級と職業がうまれる。
やがて支配者が技術職をしたがわせて、水路の工事をさせたり文字を書かせたり。
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こうして、ティグリス・ユーフラテス川沿いにメソポタミア文明が。
また黄河・長江沿いに中国文明が、誕生する。
ちなみに文明とは、その当時で最先端の技術や建造物をうみだす能力のこと。
だから天文学をうみだしたり、バベルの塔や巨大な墳墓を建てたり、楔形文字や甲骨文字などの「文字」をつくったりできた両者はともに文明社会。
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やがて人口がさらに増えると、なわばりあらそいも増える。結果として、いちばん強いやつが東西両方で統一王朝をつくる。
西では紀元前700年ころ、アッシリア王国がエジプトもふくめて統一。
でも税金がべらぼうに高くて住民の反発くらって、100年たらずで崩壊。
東では、紀元前1000年ころから周が統一してた。
でも北から騎馬遊牧民が侵略してきて、やっぱり衰退。中国は群雄割拠の春秋・戦国時代に入っていく。
中央の騎馬遊牧民
こうした東西の2大文明圏とちがい、中央ユーラシアには水流ゆたかな川がない。
だから人口が増えず、文明もおこらず、人々はただっぴろい草原で遊牧生活。
あぶみも発明されていない時代から、内ももの筋力だけで馬を器用に乗りこなし、数千頭ものヤギやヒツジをたくみに誘導して暮らす。
これが騎馬遊牧民。
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でも遊牧生活だけじゃさすがに飢える。それにたまには街にも行ってみたい。おら東京さ行くだ。
だから騎馬遊牧民はたまに東西文明圏へ旅行する。そんで食料と人を山ほどもらって帰る。タダで。これが文明圏の人からしたら略奪・侵略と映り、恐怖の対象となる。
だって騎馬遊牧民たち、半端ないほど戦が強いから。
馬にのりながら、後ろ向きで、両手でめっちゃ弓ひくもん。
そんなんできひんやん、普通。
この「騎馬遊牧民、半端ないって」が1500年ころまでずっとアジアの歴史に影響をあたえていく。
ちなみにそれ以降は火砲の普及によって、騎馬遊牧民の戦闘力は相対的に低下します。
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紀元前6~後2世紀:東西の巨大帝国
紀元前6世紀から紀元後2世紀(-600年~+200年)までの800年間は、東西の2大文明圏が優勢だった時代。
つまり「文明圏>中央の騎馬遊牧民」という図式で理解できる。
だからこの800年間のアジアの主役は、東西の巨大帝国です。
西:イラン系民族の活躍
イスラームが出てくるまで、西アジアの主役はずっとイラン系民族。
イラン系民族には農耕定住民と騎馬遊牧民の2種類あって、前者がペルシア人とかで、後者がパルティアとかスキタイとか。
この2種類のイラン系民族が巨大帝国を2つ建てる。あいだにちょっとアレクサンドロス、ってのがこの800年間の西アジアの歴史。
ユーラシア文明とシルクロード ペルシア帝国とアレクサンドロス大王の謎 [ 山田勝久 ]
まずスタートはアケメネス朝ペルシア。
ダレイオス1世が強固な中央集権国家をつくったおかげで、たとえペルシア戦争でアテネ・スパルタ連合軍に負けても、たとえ骨肉の王位継承争いがつづいても、約200年間アケメネス朝は西アジアを支配した。
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しかしギリシアからアレクサンドロスがやってきて、西アジアをぜんぶ征服。
大王亡きあともギリシア人が後継者になって、セレウコス朝シリア建国。
紀元前334年からのこのギリシア支配を「ヘレニズム時代」と呼ぶ。ギリシア文化が西アジアに浸透していった時代。
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…と一般的にはいうけれど、やはりこの時代、西アジアの主役はギリシア人じゃなくてイラン系民族。
紀元前247年頃、アルサケスというイラン系遊牧民の族長がパルティア地方(イラン高原の北)を征服。その後パルティアは勢力をひろげ、西アジア文明圏に定住し、徐々にペルシア文化も復興させていく。
ちなみにパルティアが中国で「安息」と呼ばれたのは、アルサケス朝だから。
東:春秋・戦国時代と秦の統一
おなじころ、東アジアでは群雄割拠。
紀元前700年頃から500年間、ずーっと争いつづける。
アレクサンドロスが巨大帝国を築いたときも、中国では戦国七雄が覇を競っていた。
ちなみに中国史4000年はこうした分裂→覇権争い→統一をなんどもくりかえす歴史です。
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しかしやがて秦が力をつけ、パルティア建国とおなじ年(紀元前247年)に政が即位。
そして中華を統一。皇帝を名乗る。
でも政が死ぬとすぐ反乱がおきて秦滅亡。項羽に勝った劉邦が漢を建てる。
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漢もアケメネス朝ペルシアとおなじく、強固な中央集権体制をつくりあげる。
おかげで対外戦争もバッチリ。古代中国としてはじめて中央ユーラシアへ進出。
前漢のときには武帝、後漢のときには班超ってやつが領土をひろげる。
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こうして紀元前200年~紀元後200年の約400年間、アジアは東西に巨大帝国が君臨する時代となった。
西にパルティア、東に漢。
じゃあ中央ユーラシアはというと、匈奴ががんばってたくらい。
中央:冒頓単于がんばった
先に騎馬遊牧民は戦闘力ハンパないと言ったけど、部族間で争ってるときは勢力が巨大にならない。
この800年間もそうで、だから東西の2大帝国が優勢となった。
唯一といっていい例外が、遊牧生活やめたパルティアと、そして秦・漢時代の匈奴。
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紀元前200年ころ、冒頓単于という英雄があらわれて匈奴の諸部族を統一。
モンゴル高原も支配し、漢の劉邦もうち負かす。
おまけに月氏という別の遊牧民族も追い払う。
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追い払われた月氏は西へ逃げて、そこにいたバクトリアという国を滅ぼした。
…おもなトピックはこれくらいで、あとは分裂して争ってた騎馬遊牧民たちでした。
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ここでついでに、いろんな遊牧民族を整理しときます。
≪モンゴル系語族≫
=匈奴/鮮卑/契丹
≪ツングース系語族≫
=女真(満州族)
≪イラン系語族≫
=スキタイ/パルティア/月氏
≪トルコ系語族≫
=烏孫/突厥/ウイグル
≪不明?≫
=フン人/柔然/エフタル
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紀元300年ころから、鮮卑やフン人などが大移動を開始する。
これがアジアのみならずヨーロッパ世界をも変えていく。
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3~6世紀:遊牧民大移動の時代
3世紀から6世紀まで(200~600年)の400年間は、騎馬遊牧民が優勢だった時代。
つまり今度は「東西の文明圏<中央の騎馬遊牧民」という図式。
とくに騎馬遊牧民の侵入によって、東アジアおよびヨーロッパ世界が大変動します。
中央:フン人の西進と鮮卑の南下
紀元300年ころ、中央ユーラシア北部の草原地帯から、騎馬遊牧民たちがいっせいに移動を開始する。
これは寒冷化による草の減少か、あるいは疫病の流行か、はっきりとした理由はわからない。
いずれにしろ騎馬遊牧民に「定住」という発想なんかないので、草のあるところ、そして人や家畜のいるところまでどんどん移動。
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そのなかのひとつ、フン人と呼ばれた民族は西へ西へと移動して、黒海の北までやってくる。
そこにゲルマン人という先客がいたのでとりあえず略奪と殺戮。おどろいたゲルマン人たち、あわてて南西へ逃げる。このゲルマン民族大移動にフン人もついていく。なぜなら南西にはローマ帝国という略奪しがいのある文明があったから。
これで西ローマ帝国滅亡。
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フン人は遊牧民なんで、アッティラという有能な族長が死んだらすぐに解散。
いっぽうのゲルマン人は狩猟農耕民なんで、ローマ帝国滅亡後のヨーロッパに定住。
フランク族とかゴート族とかアングロ・サクソン族とかの部族ごとに国を建てる。ここからヨーロッパは中世となる。
フン人は西へ向かったけど、多くの騎馬遊牧民は南へ向かった。だって略奪先としては中国のほうが近いし。
ちょうどこのころ、中国は漢が滅んで内乱のまっただなか。
しめた!ってんで中国の北半分を奪って諸民族がつぎつぎに国を建てる。これが五胡十六国時代。
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そのなかのひとつ鮮卑は北魏を建てる。そして439年に中国の北半分を統一する。
ここからの鮮卑がフン人とちがうのは、中国文明に染まって騎馬遊牧民じゃなくなっていった点。
統一を果たした太武帝は道教を信じるし、孝文帝なんか均田制を施行して人を土地にしばりつける始末。そもそも○○帝って名前からして中華風だし。
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こんな漢化政策に、遊牧民たちがなじめるはずもなく、北魏はすぐに分裂。
ただいちど贅沢すると遊牧生活には戻れないみたいで、そのまま華北で定住化。このなかから隋を建てる楊堅が出ます。
ちなみにみんな出ていっちゃったあとの草原地帯では、400年代に柔然が、そして500年代には突厥というトルコ系騎馬遊牧民が勢力をのばす。
また西のオアシス地帯ではエフタルという民族が勢力をのばす。
これが3~6世紀の中央ユーラシア。
東:三国→五胡十六国→南北朝
ちょっと時計の針をもどして、220年、漢がほろびる。
これは農民反乱(黄巾の乱)で漢が衰退したからで、先に述べた「分裂→覇権争い→統一」という中国史のパターンはいつも農民反乱がきっかけ。
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覇権争いは曹操・曹丕おやこ(魏)、孫権(呉)、劉備(蜀)の三つ巴に。これが有名な三国時代。諸葛孔明とか、赤壁の戦いとか。
そのあと魏の将軍がちょっと中国統一するけど、ここで北から騎馬遊牧民がやってきて、五胡十六国時代。漢民族は南に逃げる。
鮮卑が北半分を統一したころ、南でちくしょーとがんばる漢民族。このころが中国史における南北朝時代。約150年つづく。
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そして581年、定住化した鮮卑から楊堅が出る。彼が隋を建てて、南北ぜんぶ統一。
楊堅は土地制度(均田制)、税制度(租調庸)などを整えて中央集権体制を確立。
この制度がのちの唐でも、また日本でもマネされる。
西:ササン朝ペルシア
ヨーロッパと東アジアが騎馬遊牧民に席巻されたこの時代、西アジアだけはひきつづき、イラン系民族の時代だった。
主役はササン朝ペルシア。
224年にパルティアから覇権をうばって、アケメネス朝の後継者を自称する。
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ただこの時代はやはり騎馬遊牧民が優勢。500年前後には東からエフタルの侵入をうける。
ところが、ときの王さまホスロー1世は大のやり手。もひとつ東の突厥と組んで、両方からはさみうち。これでエフタル滅びる。
そのままササン朝は最盛期をむかえる。
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いけいけドンドンのホスロー1世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)とも戦争。
この戦争によって困ったのが貿易商人たち。国交断絶で、いつものシルクロードが通れない。
そこでしかたなくアラビア半島経由でヨーロッパとアジアを行き来するようになった。
これで急速に経済発展したのが、通り道だったメッカ。ここからムハンマドが現れます。
ちなみにホスロー1世は学問も大好きで、ギリシアやインドの学者をたくさんペルシアに招く。
結果、3つの学問が融合してイランの地に保存され、その後のイスラーム学問の発展、さらには西欧ルネサンスにつながっていく。
ここまでのまとめ
西アジアは1200年間ずっと、イラン系民族が主役。
東アジアは400年以上覇権争いして、つぎの400年間は漢が支配して、さいごの400年間は騎馬遊牧民の侵入うけた。
この侵入は中央ユーラシアで大移動があったから。ローマ帝国もその被害者。
これが紀元前600年から紀元後600年までのアジアの歴史。
1回目は以上!
つづきは次回の記事で。
600年~1400年(800年間)のアジア史の流れを解説します。
とくにイスラーム諸王朝の流れをどう捉えればいいのか?
トルコ化ってなんなのか?
モンゴル帝国ってなんだったのか?
このあたりの流れをわかりやすく解説する予定です。
[連載記事一覧]
- アジアの歴史の流れを超簡単に
- アジアの歴史の流れを超簡単に その2
- アジアの歴史の流れを超簡単に その3
コメント
本当にわかりやすい!ありがとうございます!