アジア史全体のおおきな流れを解説する記事2回目。
今回は7世紀~14世紀です。
前6世紀~6世紀については前回の記事を。
また15世紀~現代については次回の記事をごらんください。
前回のはじめに書いたように、世界史におけるアジア全体の流れを簡単につかむには、「西アジア」「東アジア」「中央ユーラシア」という3地域区分がおすすめです。
読者はこの構造を頭に入れながら読みすすめてください。
そのうえで、今回は、
- 西のイスラーム化と発展
- 東アジアの唐とその後の展開
- 騎馬遊牧民の再進出
- モンゴルの大帝国
までをわかりやすくまとめます。
7~10世紀:西のイスラーム化と東の唐
7世紀から10世紀(600~1000年)はふたたび東西2大文明圏が優勢となった時代。
なぜなら西にイスラーム、東に唐という巨大帝国が誕生したから。
じゃこの400年間、中央ユーラシアのトピックは何かというと、トルコ化の進展です。
西:イスラーム世界の形成
メッカをはじめアラビア半島の急激な経済発展は、そこに住むアラブ人たちの社会を変えていく。
世の中が急に変わると、人は不安で心にぽっかり穴が空く。その穴を、自分のプライドでも一時の快楽でも埋めきれなくなったとき、登場するのが宗教。
ムハンマドがイスラーム教をはじめたのはちょうどこの時期。630年にはメッカを征服し、アラビア半島を統一する。
日本でたとえれば、信長じゃなくて一向一揆が天下統一を果たしたようなもの。
(イスラーム教について詳しくは以下の記事をごらんください)
↓
だからイスラーム教徒はほかのみんなもイスラーム教を信じてほしい。というか信じろ。
ってことでジハード開始。ササン朝を滅ぼしてイラン一帯を征服し、ビザンツ帝国を追い出してシリア一帯も征服。
トップの座をムハンマドの親戚から他人がうばったあと(ウマイヤ朝)も、どんどん領域をひろげ、北アフリカやイベリア半島までイスラームの範囲となる。
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ここで不満だったのがイラン系の人たち。
1200年間ずーっと西アジアの主役だったのに、とつぜんアラブ人にとって代わられたから。
「コーランにはみんな平等って書いてるじゃねーかコラ!」と怒って革命、アッバース朝誕生。もうアラブ人だけ優遇はしません。
こうして西アジアはイラン人・アラブ人がならびたち、まじりあう形となる。
アッバース朝は中央ユーラシア西部まで領域をひろげる。
広すぎる帝国は、中央集権じゃないと分裂するのが世の常で、900年前後に3つの地方勢力が独立。
左からファーティマ朝、ブワイフ朝、サーマーン朝。
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このうちブワイフ朝がアッバース朝から実権をうばう。日本でたとえれば天皇から武士が実権をうばったようなもの。
よってアッバース朝のトップ(カリフ)は形だけの存在になり、ここから1250年までの約350年間、イスラーム版戦国時代みたくなる。
東:唐の拡大と東アジア諸国の自立
いっぽうの東アジアでは、618年、隋に代わって唐が中国を統一。
唐は中央ユーラシアへゆるい支配を広げていって、ついに751年、アッバース朝と出会う。
東アジア文明vs.西アジア文明というはじめての戦い(タラス河畔の戦い)は西の勝ち。これで中央はイスラーム化が進む。
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このころから唐の中央集権体制がゆるみはじめる。各地に傭兵団のボス(節度使または藩鎮)が群雄割拠。
で、お決まりの農民反乱(黄巣の乱)があって、傭兵団のボスのひとりにとどめの一撃くらって、907年に唐滅亡。
300年間の東アジア安定の時代が終わる。
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これで最初は唐をみならってた東アジア諸国も、独自の道を歩み出す。
日本は遣唐使をやめて、国風文化が栄え、武士とか出てくる。
朝鮮では新羅にかわって高麗が王朝を建てる。
そして北ではモンゴル系の契丹が主役におどりでて、中国をおびやかす。
こうしてまたふたたび中央の遊牧民優勢の時代がやってきます。
中央:トルコ系の登場とイスラーム化
西アジアがイスラーム化して、東アジアが唐だった7~10世紀、中央ユーラシアはどうしていたかというと、トルコ系遊牧民が勢力を伸ばした。
そもそも5世紀ころまでずっと、中央ユーラシアのメインはモンゴル系かイラン系の騎馬遊牧民だった。
ここに6世紀ころから、3番目のメインキャラとして、トルコ系が登場。
だって6・7世紀に突厥、8・9世紀にウイグルと、連続してトルコ系遊牧国家が支配的だったから。
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840年にウイグルがキルギス(これもトルコ系)の攻撃で滅ぶと、トルコ系の人々は四散して、その一部は西へ移動した。
なのでこの辺↓が「トルコ人の土地」、つまりトルキスタンと呼ばれるようになった。
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タラス河畔でイスラーム側が勝ったんで、トルキスタンにもイスラーム教が浸透していく。
とくにサーマーン朝のときムスリムになったトルコ人多数。
ムスリム同胞ならってんで、西アジア世界はトルコ系遊牧民をすこしずつ受け入れていく。優秀な騎馬戦士(=マムルーク)として。
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こうして、イスラーム版戦国時代の西アジアを、トルコ人が席巻していくのが11~12世紀となります。
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11~12世紀:再び遊牧民の時代
3~6世紀につづき、11~12世紀もふたたび騎馬遊牧民が文明圏へと進出した時代。
そして3~6世紀のときと違うのは、東アジアだけでなく、西アジアにも侵入した点。
だからこの200年間は東西両方で、騎馬遊牧民が文明とまじりあっていった時代です。
西アジアのトルコ化
上で、イスラームは北アフリカから中央ユーラシア西部まで支配したと書いた。
そして900年前後には、ファーティマ朝・ブワイフ朝・サーマーン朝の3つに分裂して、350年間のイスラーム版戦国時代がはじまったと。
このうちブワイフ朝とサーマーン朝はイラン系のムスリム国家だった。
ところがこの2つを、トルコ系遊牧民がとって代わる。
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まずサーマーン朝がカラハン朝になる。
次にブワイフ朝がセルジューク朝になる。
どちらもトルコ系遊牧民のムスリムが建てた国。だって騎馬遊牧民つよいもん。
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このまま西の端までトルコに染まるのかーってところで、待ったをかけたのが、英雄サラディン。
サラディンはクルド人っていう商業民族の出で、ファーティマ朝をのっとってアイユーブ朝を建てる。
さらにヨーロッパが「エルサレムをとりもどせ!」って侵略してきた(十字軍)のも撃退。
そうこうしてるうちにトルコ系ムスリム国家もホラズム=シャー朝に変わってた。
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サラディンが死ぬと、やっぱりいちばん強いのはトルコ人戦士(マムルーク)。
1250年にマムルーク朝というそのまんまの名前の国が、アイユーブ朝にとって代わる。
しかし、ここで、東から大モンゴル帝国がやってくる。
いるだけの存在だったアッバース朝カリフも退かされて、350年間のイスラーム戦国時代は終わりをつげる。
東アジアの契丹と女真
西アジアをトルコ系遊牧民が席巻したころ、東アジアでは契丹、ついで女真が席巻。
モンゴル系遊牧民の契丹(キタイ、国名は「遼」)は、はじめ耶律阿保機(やりつあぼき)ってヘンな名前の指導者のもとで、モンゴル高原をおさえた。
その後中国にも侵入し、唐なきあとの漢王朝・宋を圧迫。
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このころ、契丹の支配からツングース系の女真が独立。
完顔阿骨打(わんやんあぐだ)ってヘンな名前第2弾が国名を「金」として、契丹をほろぼす。
んで宋をさらに圧迫。
弱りめにたたりめの宋は南に逃げる(南宋)。
ちなみに女真族は満州族とも呼ばれ、中国東北地方が住みか。
17世紀にもふたたび活躍して、清を建てます。
中央:テムジンの台頭
1100年代に契丹がほろぶと、モンゴル高原はポッカリ空いて、また部族間でこぜりあい。
でも三方に巨大勢力(金、西夏、西遼)があるんで、うちらもまとまらないとっていう雰囲気が高まる。
そこに、英雄テムジンが現れる。
↓
テムジンのすごいところは3つ。
- 何回だましうちされても死なずに逃げのびて、あとで復讐すること。生きつづけて勝ちつづければ勢力巨大になる。
- モンゴル系、イラン系、トルコ系の別なく優秀で忠実なやつはとりたてたこと。これで勢力がさらにおおきくなる。
- 戦争のときには家族ごと移動させたこと。これで騎馬戦士は後顧の憂いがないし、馬の代えも持っていける。ついでに征服先がそのまま新しい住みかとなる。
こうして1206年、テムジンはモンゴル高原を統一し、チンギス=ハンという称号を贈られる。
そして、騎馬遊牧民の強さに加えて、上記3つのメリットを保ったまま、アジア全域を征服していく。
13~14世紀:モンゴルの全アジア統一
13~14世紀はモンゴルの時代。
東西両文明圏に騎馬遊牧民がすでに進出していたが、そのあとを追って、またたくまにどっちも征服。
史上最大の巨大帝国をつくりあげ、アジアをひとつにする。
チンギス=ハンによる征服
チンギス=ハンによる征服を年表にするとこんなかんじ。
- 1211~1215年:金の領土のほとんど
- 1218年:西遼(カラキタイ)を滅ぼす
- 1219~1222年:ホラズム=シャー朝を滅ぼす
- 1226~1227年:西夏を滅ぼす
そして1227年の夏にチンギス=ハンは陣中で死ぬ。
彼の征服活動は息子たち、孫たちに引き継がれる。
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ちなみにチンギス=ハンの息子と孫をまとめるとこう。
- 長男ジュチ…孫バトゥ
- 次男チャガタイ
- 三男オゴタイ
- 四男トゥルイ…孫フビライ、フラグ
この4人は第一夫人から生まれた息子のみ。チンギス=ハンには5人の正妻とほかにもたくさんの妻がいた。
もっというと、現代人の約1600万~3200万人がチンギス=ハンの子孫だという研究もある。どんだけ種を残したんだ……。
息子と孫たちによる征服
息子と孫たちもさらに勢力を広げ、アジア全域に大モンゴル帝国をつくりあげる。
1200年~1400年の勢力図をアニメーションにするとこんなかんじ↓。
↓
これだけ広大な帝国は後にも先にもモンゴル帝国だけ。
あまりに広すぎるってんでチンギス=ハンの子孫たちが分割統治。
中央ユーラシアのまんなかは次男チャガタイの血筋から、チャガタイ=ハン国。
中央ユーラシアのヨーロッパ寄りは孫バトゥが支配して、キプチャク=ハン国。
西アジアは孫フラグが支配して、イル=ハン国。
東アジアは孫フビライが支配して、元。
↓
こうして、当時知られていた世界の5分の4をモンゴルが支配。
はじめて世界は一体となり、人・情報・カネ・モノがユーラシア大陸全域を行き来するようになる。
アジアがひとつになる
たとえばマルコ=ポーロが世界中を旅して『世界の記述(東方見聞録)』を書いたり。
たとえばイスラーム天文学が中国に伝わって、のちに日本の貞享暦となったり。
また貨幣経済がユーラシア大陸中に広まって、西の果てではヨーロッパの封建社会が衰退し、逆にイタリア諸都市がゆたかになってルネサンスがはじまったり。東の果てでは鎌倉幕府が倒れ、倭寇が海を荒らしまわったり。
ついでに中央アジアの草原からペストも運ばれて、ヨーロッパの人口の3分の1が死んだり。
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そして中国の三大発明といわれる羅針盤・木版印刷・火砲もまた世界中に伝わる。
とくに火砲が伝播したことで、人類の戦争はあらたなステージに入っていった。
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大砲や鉄砲が勝敗を左右するおおきな要素となり、それに反比例して、騎馬戦術の優位性はすこしずつ失われていく。
- 1453年、オスマン帝国によるコンスタンティノープル総攻撃
- 1526年、バーブルによるパーニーパットの戦い勝利
- 1494年~、ハプスブルク家vs.ヴァロア家のイタリア戦争
- 1575年、織田信長による長篠の戦い勝利 etc.
↓
こうして、モンゴルによって広まった火砲により、モンゴルの軍事的優位がなくなった。
つまり14世紀をさいごに、騎馬遊牧民優位の時代は終わりをつげる。
ここに世界規模の天災もかさなって、大モンゴル帝国はゆるやかに解体し、ふたたびアジアは諸帝国が割拠する時代となる。
ここまでのまとめ
西アジアはイスラームが広まって、そのあと戦国時代みたくなって、そこにトルコ人も入ってくる。
東アジアは唐が支配して、そのあと各国が自立して、北からは契丹と女真が入ってくる。
そんでモンゴルが東西中央ぜんぶ支配して、アジアがひとつになって、火砲とか伝わる。
これが600年から1400年までのアジアの歴史。
2回目は以上。
3回目は1400年~現代(約600年間)を扱います。
15-16世紀の「モンゴル帝国よ、もういちど」の時代。
17-18世紀の「地域別世界帝国」が安定した時代。
19-20世紀の「欧米列強」がアジアを侵略していった時代。
そして21世紀。
なぜアジアはいまこのようになっているのか?
その答えがここにあります。
(前回の記事はこちらから↓)
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