ブッダの思想に歴史好きがせまる② ブッダの半生と悟りの境地

歴史

ブッダの思想をわかりやすく解説…することを目指すこの連載。

2回目はブッダが悟りを開くまでの半生と、彼が求めそしてたどりついた境地とは何だったのかを概観します。

ただブッダの生涯というと、さまざまな仏伝があって、どれが本当か、歴史的に検証することはほとんど不可能です。

そこでこの連載では馬場紀寿氏の説にもとづき、

  • 上座部大寺派(今日のテーラワーダ)
  • 説一切有部
  • 大衆部
  • 法蔵部
  • 化地部

という5つの部派仏教の仏典から、共通する箇所を中心にまとめます。

つまり、「ブッダの半生はこうだ」「ブッダの悟った境地はこうだ」と断定はできないけれど、初期の仏典はこれこれと伝えています、ってのを、ジュウゴの解説も交えてできるだけわかりやすく解説します。

 

ゴータマ・ブッダという歴史上の人物が、何を求めて生き、どんな境地にたどりついたのか?

大乗仏教以前の資料をもとに、再現してみましょう。

ブッダの生い立ち

現在のカピラヴァストゥ町の入口(Wikipediaより)

ゴータマ・シッダッダ(ガウタマ・シッダールタ)は紀元前566年頃(あるいは紀元前448年頃)に釈迦族(シャーキヤ族)の王子として生まれました。

彼の誕生から出家にいたる過程をまずは見ていきます。

ルンビニー

ヒマラヤ山脈の麓、現在のネパールとインドの国境付近には、紀元前6-5世紀頃に大小さまざまな国がありました。

そのうちのひとつが釈迦族の治める小国。

この釈迦族はコーサラ国の支配下にあり、いわゆる分封領主のような存在だったようです。

階級的にはとうぜんクシャトリヤに当たります。

ブッダゆかりの主な土地

この釈迦族のスッドーダナ王(浄飯王)とマーヤー妃(摩耶夫人)のあいだに生れたのがゴータマ・シッダッダです。

生まれた地はルンビニー

なぜ釈迦族の都カピラヴァストゥじゃないかというと、どうもマーヤー妃が出産のため実家に帰る途中、ルンビニーで産気づいたからみたい。

いまもルンビニーには、シッダッダが産湯につかったという池が残されています。

釈迦が産湯につかったとされる池
Wikipediaより

ちなみに、「ゴータマ・シッダッダ」という名前の意味は「ゴータマという家系の、目的を達成した人」

ここからわかるとおり、シッダッダ(シッダールタ)という名前は後世のあとづけっぽいとされています。

だから彼の個人名はわかりません。

この記事では便宜上、歴史上の人物としての彼をゴータマ・ブッダと呼ぶことにします(これが最近の仏教学の流行らしいんで)。

 

カピラヴァストゥ

マーヤー妃は、ゴータマ・ブッダを生んですぐに亡くなります。

そこでゴータマはマーヤー妃の妹に育てられました。

幼くして母を亡くしたこと以外、都カピラヴァストゥでの彼の生活は恵まれたものだったようです。

やがて結婚し、ラーフラという息子も授かりました。

はたから見れば、王子として生まれ育ち、妻子にも恵まれて、何不自由ない幸せな暮らしだったでしょう。

ブッダゆかりの主な土地

しかし29歳のとき、ゴータマ・ブッダは出家を決意します。

ちょうどこのころの古代インド社会では、俗世を離れて修行し、従来のバラモン教とはちがった新たな価値観を求める思想家たちが現れていました(詳しくは前回の記事を参照)。

かれらを総称して「沙門(サマナあるいはシュラマナ)」と呼びます。

つまりゴータマは、自分も沙門になると決意したのです。

王子という恵まれた地位を捨て、妻子も捨て財産も捨てて、求道者になると。

経典のことばを借りれば、「若く、見事な黒髪の青年で、素晴らしい青春をそなえたもの(『中部』26「聖求経」)」という立場を捨てて、乞食同然になると。

なぜゴータマはこう決断したのでしょうか?

 

「生老病死」

初期経典にはおおきく分けて2つの理由が記してあります。

ひとつは、

いったいわたしはなぜ、みずから生まれるものでありながら、生まれるものを求めているのか?みずから老いるものでありながら…、病めるものでありながら…、死ぬものでありながら…、憂うものでありながら…、汚れるものでありながら…、こうしたものをなぜ求めるのか?
『中部』26「聖求経」

という疑問から。

もうひとつは、だからこそ出家者となって、

なにがしかの善を求めたい
『長部』16「大般涅槃経」など

という想いからです。

 

前者はつまり、ゴータマ・ブッダが29歳時点ですでに「この世は思うままにならない」という事実を見通していたということです。

わたしの誕生はわたしの意思ではない。老いるのもわたしの意思ではない。病気になるのも、死んでゆくのも、わたしの意思とは関係なく進行する運命のようなものだ。なのになぜわたしは、同じ運命にある家族や財産に夢中になって、執着してしまうのだろう?家族を愛してもいつかかれらは老いて死んでしまうのに。財産をもっていてもいつかは滅してしまうのに。どうせわたしの思いどおりにはならないのに、なぜ「思いどおりにしたい」と望んでしまうんだろう…。

これがゴータマ・ブッダの心からの疑問だったのです。


だからこそ後者のように、彼は俗世の生活のままではこの疑問を解消できないと感じて、無上の何かを求めて出家します。

おそらくゴータマ・ブッダは、苦悩を感じていたのだと思います。

たとえどんなに恵まれた生活をしようが、この心の苦悩は取り除けない。

そう感じたからこそ、父母の悲嘆と制止にもかかわらず、髪とひげをそって袈裟をまとい、彼は家を出たのでした。

 

ちなみに「四門出遊」の故事は、初期経典には見当たりません。まぁ後世の付け足しでしょう。

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ブッダの修行と悟り

韓国の仏陀苦行像

29歳で出家したゴータマ・ブッダは、6年間の修行を経て、35歳で悟りを開きます。

この間の彼の足跡をたどることで、彼が何を求めたのか、よりはっきりと見えてきます。

二人の師

出家したゴータマ・ブッダはまず、アーラーラ・カーラーマ、ついでウッダカ・ラーマプッタという沙門に弟子入りします。

そこでゴータマはふたりの師匠から瞑想を学びました。

瞑想とは禅定(ぜんじょう)とも言い、ようするに精神集中のこと。

ゴータマは師匠たちの教えを短期間で体得します。

しかしかれらの教えに満足できず、師匠のもとを離れました。


一説には、アーラーラ・カーラーマの教えとは「無所有処(なにも存在しないという境地)」だったと伝えられています。

これは、本質的な存在などじつは何もないという考え方で、後年になって発達する「空」思想、あるいは現代物理学における真空理解(真空の相転移や素粒子の対生成と対消滅など)にも通じるところがあります。

また、ウッダカ・ラーマプッタの教えとは「非想非非想処(想いがあるのではなく、想いがないのでもないという境地)」だったと伝えられています。

これは、あるのかないのかの判断を保留するという考え方で、一切の判断は不確実だとする点で懐疑論ともいえます。

ゴータマはこのどちらにも満足できなかったのです。

なぜならこの境地は「涅槃(ニッバーナあるいはニルヴァーナ)」じゃないから。

ゴータマ・ブッダが求めたのは涅槃、つまり「消滅」だったからです。

 

苦行

そこでゴータマは苦行を開始しました。

当時のインドでは、苦行という、肉体の欲望をあえて禁じることで精神を高める修行がひろく行われていました。

ゴータマもそれにならったのです。

この肉体を、この自意識を、この欲望を、このわたしの苦しみの火を消し去って、生きながらにして消滅したようになりたい。

そんな想いで、断食をはじめとした苦行でみずからをいじめ抜きます。

ゴータマは5人の沙門仲間とともに、およそ6年間、苦行をつづけました。

 

しかし修行の末、苦行では涅槃には至れないと知り、ゴータマはそこを離れます。

そしてひとりマガダ国のウルヴェーラーという土地におもむき、そこのセーナー村にあった大きな樹の下で、座禅をはじめます。

ブッダゆかりの主な土地

 

ブッタガヤ

ゴータマは村の娘スジャータから、乳粥のほどこしを受けます。

体力と気力を回復したゴータマは、セーナー村の清らかで静かな自然のもと、瞑想します。

そしてついに悟りを開くのです。

比丘たちよ、わたしは、みずから生まれるものでありながら、生の危難を知り、無上の不生にして安穏たる涅槃を求め、無上の不生にして安穏たる涅槃を得た。みずから老いるものでありながら、老いの危難を知り、無上の不老にして安穏たる涅槃を求め、無上の不老にして安穏たる涅槃を得た。みずから病めるものでありながら、病の危難を知り、無上の不病にして安穏たる涅槃を求め、無上の不病にして安穏たる涅槃を得た。みずから死ぬものでありながら、死の危難を知り、無上の不死にして安穏たる涅槃を求め、無上の不死にして安穏たる涅槃を得た。
(中略)
私に不動の解脱がおこった。これが最後の生である。もはや再度の生存はない。
『中部』26「聖求経」

 

こうしてゴータマは35歳で「ブッダ(Buddha 目覚めた人)」となりました。

求めつづけた涅槃(消滅)の境地を、彼はついに得たのです。

ちなみにゴータマが悟りを開いた樹も「悟り(Bodhi)の樹」つまり菩提樹と、のちに呼ばれるようになりました。

また、彼が悟りを開いたセーナー村ものちに「ブッダガヤ」と呼ばれるようになりました。

ブッダガヤの大菩提寺の菩提樹
Wilipediaより

 

涅槃の境地とは?

以上のように、ゴータマ・ブッダが求め至ったのは涅槃(消滅)の境地でした。

では、涅槃とは何か?

二度と苦を味わうことのない境地です。

苦が消えた境地

わたしたち人間はどんな場面で、苦を感じるでしょうか。

  • いじめや迫害を受けたとき
  • 失敗や過ちを犯したと自覚したとき
  • 人間関係で悩むとき
  • 愛してもらえないとき
  • 将来が不安なとき
  • かつて持っていた財産や信頼や健康や若さが失われていくとき
  • 病にたおれて死を身近に感じたとき
  • 親しい人を亡くしたとき…

では、こうした心の苦はなぜ生まれるのでしょうか。

より良い状態を求めるからです。

もっといい状態になりたいと願うからです。

では、もし、わたしたちが「もっとより良く生きたい」と求めなかったら?

夢や希望、目標や願望をまったく抱くことのない心になったなら?

苦は原因を失って、消え去ります。

これこそが涅槃(消滅)の境地なのです。

 

渇望が生存をつくる

仏教では、このより良い状態を求めることを「愛(渇望)」といいます。

異性に好かれたい…。

長生きしたい…。

いっそ死んでしまいたい…。

これらすべて、何かを求めているので、渇望です。

つまりゴータマ・ブッダが見つけた真実とは、「苦の原因は渇望である」ということでした。

比丘たちよ、苦の原因の真実とは以下である。
それは、再度の生存へみちびく、喜びと貪りをともなった、あちこちで歓喜するこの渇望である。
つまり、快楽への渇望、有への渇望、無への渇望である。
『律蔵』「大品」

 

「苦の原因は渇望である」というのは、ゴータマ・ブッダが見つけた4つの真実(四諦または四聖諦)の2つめに当たります。

また上の引用からもわかるとおり、ゴータマ・ブッダは当時インドの輪廻思想を否定することなく、渇望によって再度の生存がつくられ、結果、生老病死という苦しみをまた味わうとしました。「原因によって結果が生じる」というこの考え方を縁起といいます。

こうした四諦、縁起のほかにも、中道八正道五蘊といった考え方を、ゴータマ・ブッダは初めての説法(初転法輪)のなかで語りました。

だからブッダの思想にせまるには、初転法輪の内容をくわしく見なければなりません。

そこで次回はブッダの初転法輪の内容を掘り下げます。

ブッダはこの世界をどう捉えたのか?

どうしたら涅槃の境地にたどりつけるのか?

仏教の神髄がそこにあります。

NEXT→ブッダの思想に歴史好きがせまる③ 初転法輪で説かれた4つの真実

 

まとめ

ゴータマ・ブッダは紀元前566年頃に釈迦族の王子として生まれる。

妻子を得たが、29歳で「みずから生まれるものでありながら生まれるものを求め」ることに疑問を感じ、「善を求め」て出家した。

ふたりの師に瞑想を学んだあと、6年間の苦行を経て、苦行を離れたのちに35歳で悟りを開く。

それは涅槃(消滅)の境地。

苦の原因となる渇望、その渇望の火が消えた状態。

 

では、人はどうやったら涅槃の境地にたどりつけるのか?

次回、いよいよブッダの思想の核心にせまります。

NEXT→ブッダの思想に歴史好きがせまる③ 初転法輪で説かれた4つの真実

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