前回につづき、戦後日本の田舎の激変について、『あまちゃん』を通した考察です。
今回は戦後の田舎で、地域帰属意識の対象が拡大したことを見ていきます。
いきなり難しいことばを出してしまったんで、すこし解説してから入ります。
「帰属意識」とは、集団に属しているっていう感覚のことです。
多くの人は「家族」という集団にたいして強い帰属意識をもっているし、また日本人なら「日本」という国にたいして弱い帰属意識をもっているでしょう。
ここでいう強い帰属意識とは、「集団の一員を自分のことのように思う」感覚。
弱い帰属意識とは、「集団全体をけなされたらちょっとムカつく」感覚。
程度の差はありますが、だいたいそう捉えてOKです。
そして人は、地域にたいしてもこの帰属意識を持っています。
戦後まもなくの頃まで、田舎の人間は、自分の生まれ育った「集落」にたいして強い帰属意識をもっていました。
しかしその後の社会の変化を経て、田舎の人間は、自分の生まれ育った「市」にたいして弱い帰属意識をもつように変わった。
この変化の理由を見ていこうというわけです。
つまり、夏ばっぱは地元を「袖ケ浜」と言うのに、春子やアキは地元を「北三陸市」と言う。
これはなぜなのか?
いつからこう変わったのか?
前回につづき、数々のデータをもとに解き明かしていきます。
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地元が拡大した4つの理由
『あまちゃん』の中で、夏ばっぱが住んでいるのは、袖ケ浜という漁業集落です。
元ネタの小袖集落は世帯数だいたい50戸。
この、おたがい顔のみえる小さな集団が、夏ばっぱにとっての「地元」になります。
いっぽう、東北編の舞台、北三陸市のモデルは岩手県久慈市。
世帯数は14,256戸、人口は35,642人(平成27年国勢調査)。
この、ほとんどが赤の他人である、ぼんやりとした地域概念が、春子やアキにとっての「地元」なんです。
いったいなぜ、「地元」はこのように拡大したのか?
理由は主に4つありました。
①昭和の大合併:概要
原因のひとつめは「昭和の大合併」です。
近代以降、日本では大規模な市町村合併が3回ありました。
1888~1889年の「明治の大合併」。
1953~1956年の「昭和の大合併」。
1999~2010年の「平成の大合併」。
この3回の大合併による市町村数の変遷は下のとおりです。
この表からわかるとおり、昭和の大合併によって多くの村が統合されて市となり、市町村数も約3分の1になりました。
『あまちゃん』の舞台である久慈市もそう。
夏ばっぱの地元の小袖集落は、それまで「宇部村の小袖」でした。
ところが宇部村が久慈町など6町村と合併したことにより、久慈市が誕生します。
結果、夏ばっぱの住む場所は「久慈市宇部町第24地割」となったのです。
①昭和の大合併:帰結
この市町村合併によって何が起こるか。
まず、納税先が「村」から「市」に変わります。
金払ってんだ、どうなってる、ちゃんとやれ、と思うのは人の心情。
結果、住民の意識が「市」にまで拡大したのです。
また、この市町村合併によって、地名が住所から消えたところも多くありました。
「小袖」という集落名も、いまはもう行政上では使われていません。
旧地名を消滅させた場合、地域にたいする帰属意識が低下し、地域への関心も希薄になります。
(遠藤、中井、中西「市町村合併による市町村名称の変更が住民の地域帰属意識に与える影響」日本都市計画学会、2004年より)
つまり、集落への強い帰属意識が失われていったのです。
こうして、戦後すぐ、「地元」は変わりはじめました。
昭和の大合併の結果、集落にたいする強い帰属意識はすこしずつ失われていきます。
そして、市にたいする弱い帰属意識がそれにとって代わっていくのです。
②産業形態の変化
地元拡大の原因、その2つめは、産業形態の変化です。
前回の記事でもふれましたが、高度経済成長期をとおして、日本の中心産業は農林漁業から製造業・サービス業へと移行しました。
つまり、1950年代から農家や漁師は徐々に減り、逆にサラリーマンの数が圧倒的になったです。
こうした産業形態の変化による影響は、近所付き合いの減少だけじゃありません。
市内のいろんな人との付き合いが逆に多くなるのです。
なぜならサラリーマンは日中、市内や近隣から集った人々と「職場」ですごすからです。
また自営業者も、買い物客や配達先など、集落以外の人との付き合いが多くなるからです。
こうして、田舎の人間も、付き合いの範囲が広がりました。
付き合いが広がれば、共通の話題も変わります。
「うちの集落の長内さん、またかつ枝さんとヨリ戻したげな」
ではなく、
「北三陸をなんとかすっぺ」
になります。
結果、田舎の人間の帰属意識は、より「集落」から「市」へと傾いたのでした。
③モータリゼーション
3つめの原因は「モータリゼーション」。
大向大吉がライバル視するモータリゼーションです。
戦前まで、田舎の人間のおもな交通手段は徒歩か自転車でした。
とくに自転車は大正・昭和期にひろく普及したので、1940年代には5~6割の家庭が保有していたと思われます。
(1940年時のおよその自転車台数÷世帯数×100≒54.8%)
ところが、1960年代後半以降、この状況は激変します。
上の表のとおり、自動車、なかでも乗用車が急速に普及していきました。
それにともない、道路のアスファルト舗装も進み、高速道路も全国に渡されました。
こうしたモータリゼーションによって、田舎の人間のおもな交通手段は車に代わったのです。
自転車で気軽に行ける範囲は、せいぜい1~2km。
でも車なら、10~20kmの範囲でも気軽に移動することができます。
9km離れた夏ばっぱの家に毎朝うに丼を取りに行くのだって、ぜんぜん苦になりません。
こうして大吉はじめ田舎の人間にとって、市内全域が行動範囲になったのです。
結果、田舎者の意識はさらに「集落」から「市」へと拡大したのでした。
ちなみに交通手段としては他に鉄道がありますが、路面電車のない田舎では、鉄道は行きたいところへ行く手段じゃありません。
だから田舎ほど車社会なんです。
「第3セクター敗れたり!モータリゼーション大勝利だ!」(117話の大吉のセリフ)なわけです。
④大学進学率の増加:概要
地元拡大の原因、最後は「大学進学率の増加」です。
下の表のとおり、1960年代後半から大学進学率は急増します。
そして1970~80年代には、3人に1人が大学・短大へ進学するようになりました。
また、1990年代からは再び進学率が伸びていきます。
そして2000年以降には、2人に1人が大学・短大へ進学するようになりました。
田舎の人間にとって、大学進学とは、都会に出ることです。
なぜなら大学があるのは都市部か地方都市だけだからです。
久慈市の人間も、大学へ行こうと思ったら盛岡まで出なければいけません。
まずほとんどの学生はひとり暮らしするでしょう。
④大学進学率の増加:帰結
人は、いちど外に出ることで、地元を意識します。
そして「外」の範囲がどこからかによって、地元という概念の広さも違ってきます。
もし、集落を出て、市内中心部に行くことを「外行き」と感じるなら、その人にとって地元とは集落です。
でも、市内を出て、都市部に行くことを「外行き」と感じるなら、その人にとって地元とは市です。
1960年代後半、田舎の若者からは、すでに集落にたいする強い帰属意識が失われつつありました。
原因は前に挙げた3つ、昭和の大合併・産業形態の変化・モータリゼーションです。
つまり田舎の若者にとって、市内中心部はもう「外」じゃなかったんです。
そんな若者が大学進学によって、都会でひとり暮らしをはじめます。
初めて経験する「外」。
意識にのぼる地元とはどこか?
「市」なんです。
あるいは「県」や「地方」なんです。
こうして、集落への帰属意識はますます失われ、市への帰属意識、あるいはもっと広域の「県」「○○地方」への帰属意識がとって代わったのでした。
足立ヒロシが観光協会で北三陸のためにがんばるのも、
もちろんアキへの想いが変わらずあるためでもありますが、
北三陸市への帰属意識って要因もあるでしょう。
ヒロシは大学で盛岡へ出、就職で東京へ出てますもんね。
そんで2か月半で帰ってきて、ストーブさんになってたけど、観光協会に拾われたもんね。
まとめ
はい、2回目もお堅い記事になってしまいました(-_-;)。
まとめです。
この記事のまとめ
戦後、田舎の人間のなかで、地域帰属意識の対象が拡大した。
つまり「集落」への強い地元意識から、「市」への弱い帰属意識に変化した。
原因は主に4つ。
1.1953年~ 「昭和の大合併」
- 納税先が「市」になり、意識が拡大。
- 住所から地名が消えて、集落への帰属意識低下。
2.1950年代~ 産業形態の変化
- 集落内での近所付き合いの減少。
- 市内のいろんな人との付き合いの増加。
3.1960年代後半~ モータリゼーション
- 市内全域が行動範囲となり、さらに意識拡大。
4.1960年代後半~ 大学進学率の増加
- 都会に出て暮らす若者の増加。
- 結果、地元はさらにぼんやりと思う概念となる。
世代ごとの「地元」
こうしてみると、集落にたいして強い帰属意識をもっていたのは、戦前・戦中生まれまで、というのがわかりますね。
つまり夏ばっぱ(1944年生まれ)あたりまでがギリ、ってことです。
だから夏ばっぱにとって地元は「袖ケ浜」なんです。
でも、団塊の世代頃から、地域帰属意識が揺らぎはじめました。
だって物心つくころに昭和の大合併、社会人になるころには産業形態の変化に直面、だから。
「メガネ会計ばばあ」こと長内かつ枝(1949年生まれ)は、自分の地元が集落なのか市なのか、どっちつかずなんじゃないかな。
だから組合長となんども結婚・離婚をくりかえしたのかな?
だから団塊の世代は「職場」に新たな帰属先を求めたんかな?
1950年代~1960年代生まれはもう、「地元」といえば市を指す人が多いでしょう。
だって高校卒業したころには、運転免許を取るのも、大学進学も、現実的な選択肢になってたから。
「騒音ばばあ」こと今野弥生(1952年生まれ)も、「フェロモンばばあ」こと熊谷美寿々(1958年生まれ)も。
北鉄の大吉(1964年生まれ)も、「落ち武者」ことあんべちゃんも、春子も(ともに1966年生まれ)。
みんな地元は「北三陸市」です。
そして1970年代以降に生まれた人には、集落への帰属意識がほとんどないと思います。
かれらにあるのは、家族への帰属意識、そして市へのぼんやりした弱い帰属意識だけ。
だから、春子とユイ(1991年生まれ)では、地元民への自己紹介の仕方がちがうんです。
春子にはまだ集落に対する意識がちょっと残ってるから、「袖の春子です」。
でもユイには集落なんて概念は頭からないから、「足立(家の)ユイです」。
つまり、40代以下の田舎の人間にとって、集落とはもはや自分と関係のない代物なんです。
いま、田舎の若者が集落を意識する機会って、町内対抗運動会と祭りのときだけじゃないかな。
一時の地元感情ってやつですね。
サッカーW杯のときと同じ。
このように、地域への帰属意識をとおして世代をみてみると、いろいろおもしろい発見があります。
じゃあ、帰属意識を「職場」や「家族」「国家」などにも当てはめてみると、現代日本のいろんな側面も見えてくるんじゃないか。
ってことで、次回は帰属意識をとおして現代社会を考察します。
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